Kanonファームに新しい生命が舞い降りた。
難産なども無くベテランの母馬達は、育児放棄などもせずに産まれてきた仔に乳を与える。
今年生まれた仔馬は2頭とも牝馬であり、毛色も同じ栗毛だった。
違いは額にある星と流星の違いだけで、それ以外はまったく差は見受けられない。
因みにビゼンニシキ産駒が母父ノーザンテーストに似た流星を持っている。
秋名の懸念――ムクター産駒が芦毛では無かった事が、本人にとって嬉しい事だったようだ。
けれど、1歳馬には芦毛の馬がいるので秋名はその事を思うと顔をしかめる行為が多い。
ただ、今年の天皇賞・春に出走するメンバーの中に1頭、芦毛の有力馬――タマモクロスと言う生産者孝行の馬が。
タマモクロスを生産した牧場はKanonファームに近い中小牧場であり、実際に数億円の借金があるほど厳しかった。
それに比べるとKanonファームはまだ恵まれているのだが、いつ同じようになるか分からない。
そのため、去年この牧場はタマモクロスが活躍する前に手放す事になってしまった。
それにシンクロするようにタマモクロスは、どんどん連戦連勝を続けて、今年の天皇賞・春まで5連勝。
「だから、走らないと言う事は無いと思いますよ? 姉さん」
秋子はタマモクロスを例に出しつつ、育成牧場にいる芦毛の1歳馬を思い馳せる。
むぅ、と秋名は端麗な眉毛を八の字にしつつ、眉間にしわを寄せて唸りだす。
ここまで活躍している馬が出現すると、秋名も認めらなざなく渋々と頷く事を選択したようだ。
「そうなると、1歳馬は活躍して貰わないとな」
この場所に居ない事を良いことに、秋名は雲一つ無い空を眺めながらプレッシャーを与えるような言い方で呟いた。
仔馬が生まれたので、今年種付けを行う種牡馬を決める話し合いが行われる。
とは言え、話し合うのは秋子と秋名の2人なので会議とは言い難い物だが。
秋子はリビングにある大型の本棚から今年の種牡馬辞典を取り出して、テーブルの上に置く。
秋子と秋名の傍には底が僅かに青と白を混ぜ合わせたコップにアイスコーヒーが並々と注がれている。
更に、スナック菓子が袋に入ったままテーブルの上に置かれており、どうやら長引く事が前提のようだ。
ポリポリと、子気味良い音を立てながら秋名から切り出すのだが、秋子は首をひねって別の馬を上げる。
この会議は別の一般人から見たら、普通の主婦が何かの暗号を話し合っている怪しい人物に見えるだろう。
だが、競馬関係者からすると当たり前の用語がバンバンと出てきているので少なくとも2人は一般人に分類されないのは確か。
そして、今年から新たな繁殖牝馬を取り入れて血脈を広げると言う目的もある。
とは言え、国内の繁殖牝馬ではなく欧米のどちらから輸入をしたいのだが当てが無い。
国内では繁殖牝馬のセールは開催されているのだが、欧米では行われておらずそこの牧場に買いに行くのが一般的。
秋子の希望としてはミスタープロスぺクター産を受胎した格安の繁殖牝馬。
秋名は特に希望が無いようだったので、秋子の希望が優先させられるのだが、今すぐに購入の為に行けるわけではない。
行くとした、母体が安定してきた頃――夏頃から秋頃の時が一番良い目安なので、まだ4ヶ月以上先の事。
「んで、今年はアンバーシャダイとサクラユタカオーか……」
どちらも内国産馬であり、種付け料はそれほど高くなくリーズナブルなのはKanonファームにはありがたい。
サクラユタカオーは今年が2年目で、現1歳馬の評価はそれなりに良いと風の便りで聞いている。
現在の競馬は徐々に長距離レースが老衰しているので、それに代わる種牡馬としての評価を持つのが本馬――サクラユタカオー。
毎日王冠と天皇賞・秋をレコード勝ちするほどスピードを持ち、持続力ある脚の持ち主なのが選ばれた理由。
アンバーシャダイは今の時代に合うかと言えば、首を傾げたくなるステイヤーだが、種付け数は毎年一定の数をキープしている。
それを補う成長力を持ち、ノーザンテースト系は3度成長するとまで言われるのがアンバーシャダイ。
「今年の種付けに行く時は姉さんが連れて行ってください」
去年の事を未だに覚えているのか、秋子はジッと秋名の顔を眺めてボソッと囁くように呟いた。
秋名はその台詞を聞いて言葉を詰まらせてから、テーブルに置いてある氷が融けきったアイスコーヒーを口に含んで、視線を逸らした。
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この話で出た簡潔競馬用語
注1:アンバーシャダイ……有馬記念と天皇賞・春の勝ち馬であり、ノーザンテースト産駒の代表馬。