秋子は自ら、音薙騎手の元に電話をするがまったく繋がらないので、先に久瀬調教師が掛けていると予想する。
リビングでジャンケンをしていた祐一と名雪は世話する馬がようやく決まったのか、厩舎に向かって行った。
今は3頭の1歳馬がいるが、ブリーズセールで購入した2頭は元から基礎訓練が終わっているので頭絡などを着けるのは慣れている。
Kanonファームで生産したトウショウボーイ×ノーザンテースト産駒も基礎訓練は終わる頃であった。
ただ、競馬協会が育成した馬の方が鞍着けなどは早く終わっているのも、また事実。
育成のスピードに差があるのは確かだが、それは1歳の時期に売却を行うからであり、慣れていないと売り物にならないから。
8月にはトウショウボーイ×ノーザンテースト産駒をセリ市――サマーセールに登録が必要。
それまでに基礎を教え込む必要があったが、現時点ではまったく問題にしない状態である。
「名雪は育成面で向いているかもしれませんね」
ポツリと秋子は呟き、家の窓から名雪の様子を伺う。
飴と鞭を使い分けるようになっており、可愛がっていてもキチンと教えているのは良かった。
そろそろ良いかしら、と秋子は思い出したようにぼやいてからもう一度受話器を取る。
今度はちゃんと着信音を鳴らし続けており、暫くすると音薙騎手の声が聞こえる。
「もしもし、水瀬ですが……」
電話先なので、声の張りぐあいは不明瞭だが普段どおりらしく秋子はホッとした。
音薙騎手は電話の理由が分かっていたらしく、秋子より先に謝ってくるので秋子の方が不思議そうな表情になった。
秋子が考えるより、音薙騎手の方が乗り代わりの苦労は多く味わっておりこれもいつも事だと笑いながら言っている。
逆に秋子の方を励ましてしまうほど、秋子が心配していた危惧はまったくなかった。
「心配してくださって、ありがとうございます」
音薙騎手もお礼を言い、最後にお互い頑張りましょうで励ましあって電話を切る。
正味5分も会話していなかったが、秋子は励ましされたのを心に留めておき、いつか音薙騎手と重賞を狙いたいと誓った。
因みにジェットボーイの5戦目は決まっており、直前の乗り代わりでは無いのが音薙騎手が余裕だった理由だろう。
その頃、秋名は1歳馬の世話を行っていた。
0歳馬はまだ母馬と一緒に行動しているので、事故が起きない限り母馬に任せている方が安心できる。
もう既に1歳馬は鞍着けを慣れており、後は人を乗せて指示に従わす事だけであるが一番大変である。
まぁ、これは育成牧場に預ける前に教え込まなくてはならないのが厳しい所であった。
祐一と名雪は秋子が購入した2頭の1歳馬の世話を各自に行っているので手が放せない。
秋子は指揮官と言った方が近いので、3人に指示をして自分が手伝うと言う事が多い。
人の数と馬の数が吊り合わないので苦労が多いが、秋名の中では充実感があり溢れているようだ。
祐一はいつも乗っている方が楽しそうなので、牧場の手伝いは嫌そうであるが仕方なくやっている感じ。
が、秋名は文句を言わずにただ見守っているだけ。
秋子はその点に付いては何も言わない事にしていた。
秋子は久しぶりに電話でだが、隆道と会話をしていた。
放牧地に行こうとした矢先だったが、秋子は断りきれずに会話を楽しむしか無かった。
「どうですか? 最近の成績は」
隆道もかなり苦労しているようであり、歯切れの悪い答えが返ってきた。
イギリスは馬の質は良いのだが、それでも簡単に勝てないのが競馬であり、それが醍醐味と言えるが。
「そうですか……イギリスで買った馬はまだ4戦1勝しかしていないので同じ様なものですね」
秋子はそう言って苦笑いを洩らすしか無かった。
勿論、隆道も同じように苦笑いを電話越しで洩らしていた。
「そういえば、トニービンはどうなりましたか?」
イタリアダービーが4着と準重賞――日本で言うとOPクラスが1着ですと隆道は伝える。
秋子は深く肩を落として、溜息を吐くしかなかった。
例え、イタリアのダービーでも秋子はまだ自国のダービーにすら出せていないので悔しさがこみ上げている。
「早くダービーに出せる馬を発掘しないと……」
隆道も同意して、お互いに励ましあってから電話を置いた。
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この話で出た簡潔競馬用語
注1:イタリアダービー……3歳馬が狙うダービーの1つであり、距離2400m。
注2:準重賞……日本と違い、海外では初勝利後は〜万下などのレースはないので代わりに近い。