ある場所は重苦しい空気が漂っており、台風が過ぎ去ったように物が散らばっている。
雑誌やクッションなどが壊れないものが散らばっており、人為的だと分かる。
廊下に落ちている物を避けるようにして、秋名と秋子は壁に寄り掛かりながら腰を下ろす。
ふう、と溜息を吐いて自分の右腕を擦る秋名。
「ちょっと、痣になっているな」
「大丈夫ですか?」
ん、と秋名は頷いて、廊下の先にある扉――名雪の部屋と書かれているプレートと一緒にドアを見上げる。
秋名の傍には右腕に当った大型の雑誌がページを開いて転がっている。
やれやれ、と言いたげに秋名は肩を竦めつつ、軽くおどけていた。
逆に秋子はやっぱり、と俯いているので三つ編みを解いた長い髪に拒まれて表情は分からない。
ただ、悲痛な表情なのは顔を覗かなくても伝わっていた。
「やっぱり、こうなりましたか……」
秋子は膝を抱え込みながら呟いており、秋名は煙草を咥えつつ虚空を眺めている。
「教えないでいるのも無理ですしね」
「ああ……可愛がっていた馬が売られると知ったら、怒るのも当然だしな」
秋名はここに持ってきた灰皿に煙草を揉み消して、階下に下りようとする。
秋子はチラリと腕時計を覗くと、ジェットボーイの発走時間だった事を思い出し、秋名が1階に向かった理由が分かる。
ひらひらと背を向けながら手を振っており、頑張れと結果見て来る意味が込めてありそうだった。
トントン、と階下に下りていく音は少しずつ小さくなっていった。
「名雪。売る事は規則だから仕方ないの」
聞こえているかは分からないが、秋子はドアの向こうにいる名雪に語りかける。
嫌だよ、と耳を澄まさないと聞こえないほど小さな声が返ってきた。
名雪は売ると、自分が世話出来なくなる理由が分かっていた。
Kanonファームには育成施設が整っていないので、購入した馬主は別の牧場に預ける可能性が高い。
「絶対に他所の牧場に預けられるもん」
名雪は既に確信しているように言い切り、秋子は何も言い返せなかった。秋子自身も同じ事を思っていたから。
「……ごめんね名雪。うちの牧場が小さいから」
名雪は沈黙を貫いているが、ポツポツとお母さんが謝らなくて良いのに、と呟いた。
けれど、名雪はドアを開けずにジッと膝を抱え込んだままだった。
その頃、秋名はTV画面をチャンネルに合わせて競馬番組を見ていた。
テーブルには火が着いた煙草を置いた灰皿と淹れ立てコーヒーを準備して、観戦をする。
パドックシーンではジェットボーイの体重が公表され、前走比+8Kgの増加。
だが馬体はふっくらしておらず、筋肉の増加した分の体重になったのだろう。
「うん……これなら良いな」
あまり、秋名は馬体に関しては詳しくないが、良いように見えたのか頷いている。
単勝人気は前走負けた所為なので3番人気で落ち着いており、代わりに馬連では1番人気との組み合わせが売れている。
6枠9番――緑のヘルメットを被った音薙騎手が厩務員に脚を支えられて騎乗をする。
「やっぱり、騎手は騎乗すると格好良く見えるな」
意味も無く頷いて、コーヒーをすする秋名。
祐一を騎手にしたいのだが、格好良くより泥臭く騎乗して欲しいと思っているが、どういう風になるかは分からない。
「まぁ、まだ先だけど合格しないと意味無いな」
何年も先の事を考えると鬼が大笑いしそうなので、秋名はこめかみを掻いて馬場入場を見る。
特に入れ込む様子も見られず、順調に馬場入りをするジェットボーイ。
これなら問題ないな、と呟いた所でタイミング良く秋子が階下に下りてきた。
「どうだ?」
「暫く、考えさせて欲しいと言っていたので」
そうだろうな、と秋名は囁いて並々と注がれているコーヒーサーバーを取り、秋子のコーヒーカップに黒い液体を注ぐ。
コトリと秋子の前に置く。
モクモクと湯気が出ているコーヒーに手を付けようとすると丁度レースが始まる。
今回は前走の出遅れを踏まえて2番手からのレースを行った。
特に入れ込むことも無く、折り合いが付いていたのが幸いだった。
直線まで均衡は変わる事無く、雪崩れ込む。
ジェットボーイはワンテンポ仕掛けを遅らせて、先頭に立ち千切ろうとするが差し馬の2頭に最後差されてしまう。
首、頭差の3着になってしまったが、初遠征の事を考えたら十分な結果。
「ちょっと惜しかったですけど、次走が楽しみですね」
そうだな、と言いたげに秋名も頷いており、二人は嘆く事は無かった。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。