祐一が家に帰ってくると、既に秋子と秋名が腕をかけて作った豪勢な料理がテーブル一面に隙間無く置かれていた。
とはいえ、祐一は騎手になったので体重制限が厳しいのでこれだけの量を出されても食べる事は不可能。
一応、祐一専用となる料理は置かれているのだが、テーブルに並べられている料理に比べると、数は少ないが同じ様に豪勢さは失われていない。
そして、従業員や近隣の牧場関係者が祐一を祝う為に集まっており、牧場関係者の繋がりが良く分かる一端。
祐一が姿を現すと、リビングに押し込められた関係者の声と拍手が響き、壮観な場面になってしまった。
秋子は祐一が今日の主役であるためか、ジュースが並々と注がれたコップを渡して、乾杯の音頭を取らせる。
祐一はその事を想定していなかったのか呆気に取られてしまい、しどろもどろになりながらも乾杯の音頭を済ます。
乾杯が終わると牧場関係者が祐一の傍に寄ってきて、いつか祐一にレースで騎乗してもらいたいのか売り込みにやって来る。
日高地区の生産馬は中央で走らせる馬の数は少なく、どちらかというと地方の方が多いので、あながち売り込みは間違っていない。
そんな牧場関係者の売り込みを相手にしながら、祐一は苦笑いを浮かべながらしっかりと対応している。
「人気者だね、祐一」
「俺に言われても仕方ないんだけどな……とりあえず話を聞く位はしておかないとな」
「あはっ、それくらいは我慢しないとね」
祐一は名雪の言葉に同意しながらも少しだけウンザリしているようだが、おくびにも出さない。
これくらいの営業は騎手にとっては当たり前なのだから。
「祐一さん、おめでとうございます」
「おめでとう。相沢君」
「お、おう。ありがとう」
牧場関係者では無いが、秋子の好意で栞と香里はこの場に同席しているという訳である。
しかし、祐一が2人と会うのは久しぶりの出来事になり、特に女性らしいプロポーションになった香里の全身を見て、祐一は少しだけ固まってしまう。
香里の方に視線が向いているのが気付いたのか、栞は頬を膨らませて微妙に怖くない表情で睨んでいる。
「むー……なんでお姉ちゃんばかり見ているんですか」
「そりゃあ、まぁ」
祐一は言い淀んでしまい、ますます栞を怒らせる事になってしまうが、中学生の栞では香里の様な魅力を出すのは無理があるのだから。
そして、ある程度時間が経ち、ぽつぽつと帰宅し始める牧場関係者が出てくる。
わざわざ牧場作業の合間に祐一を祝いに来たのが伺え、この時期の牧場は忙しいのが通例なのだから。
最後の客が帰宅すると、Kanonファームはガラリといつも通りの静かさに包まれてしまう。
祐一だけは本日の主役なので牧場作業は行わなくて良い、と秋子に言われた為、リビングで寛いでいる。
暫く、寛いだ格好でソファーの上に置かれていた競馬雑誌を読んでいると、秋名が祐一の対面に座る。
「ようやく、スタートに立ったか」
「最初の言葉がそれかよ……まぁ、これからが本当のスタートだけどな」
秋名はグラスを手に持ちながら祐一に話しかけており、それなりに飲んだのか頬が若干赤くなっている。
祐一に勧める事なく、グラスの中に注がれている酒をゆっくりと飲みながらジッと祐一の顔を見ている。
「ふん……随分と宗一に似てきたな」
「自分では実感が沸かないが、そんなに親父に似ているか?」
「そうだな……まぁ似ているかはどうかはおいといて、騎手デビューおめでとう祐一」
「母さんが祝言を言うのは珍しいな……と、ありがとう。出来るだけやってみる」
「やってみるではなく、“やる”位は言って欲しいが、まぁ頑張ってくれ」
そんな事を言いながら秋名はソファーの下に手を伸ばし、1本の細長く革に包まれている物体――鞭を取り出す。
そして、祐一に向かって器用に下手で投げると、祐一は慌ててキャッチする。
昔ながらの鞭で、今のようにグラスファイバーを利用した物ではなく鯨の髭を使用した物。
「……これは?」
「ん……何、秋子の旦那――祐馬が使用していた奴だ。秋子からの贈り物だと思え。遠慮はするなよ? 鞭は使わないと意味無いからな」
「そうか、それなら使わないとな」
それだけ、会話をすると秋名は流石に酒の廻りが早くなったのか、欠伸を漏らしつつ、立ち上がってから寝室に向かっていった。
既に秋子と名雪も就寝しており、秋名と祐一の会話を邪魔しない為に割り込む事はしなかったのだろう。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。