徐々に日高地区の牧場から本年度誕生した仔馬の朗報が聞こえてくる時期になり、Kanonファームでも出産を待つ時間が増加している。
だが、簡単に出産してくる訳でもなく、ただただ厩舎で待機して時間が経過するのみであった。
厩舎内は休憩室のみが明るく照らされており、通路内や馬房はほんのりと心細い明かりが点っているだけ。
薄暗い通路には冷たい風が吹き込むので、名雪は震えながら懐中電灯を手に持ちつつもキチンと各馬房をチェックしている。
こんな日々が出産が完了するまで毎日続くので、既に疲労困憊の表情になってしまっている。
「……うう、この時期は本当に疲れるよ」
目を軽く擦りながらも馬房をキチンとチェックしており、産まれる直前の行動次第が分かれば対応は可能なのだから。
現在は出産の予兆が無い事が分かると、名雪はストーブの暖が着いている休憩室に急ぎ急ぎで向かう。
冷え切った身体を温めるために、休憩室に辿り着くとストーブの前に手を翳して吐息を吐く。
「寒いなぁ……っと、コーヒーを飲んで温まった方が良いか」
名雪はポットで保温していたお湯をコーヒーカップに入れて、適度にインスタントコーヒーの元をスプーンで掬う。
秋子が淹れるコーヒーに比べると格段に味が落ちる為か名雪は顔を顰めながらも、しっかりと飲み干してしまう。
「やっぱり、お母さんが淹れたコーヒーが美味しいなぁ」
少しばかり身体が温まった名雪はそんな事を呟き、休憩室に持ち込んだ競馬雑誌を読み始める。
春クラシックの開催が近い為、それの展望が細かく書かれている。
一面を飾るのはやはりと言うべきか、クラシックで勝利しそうな馬が重点的に掲載されている。
Kanonファームの生産馬はルビーレイとタツマキマキマスカがオークス向けと評価されており、桜花賞は距離の短さが疑問視されていた。
タツマキマキマスカは桜花賞に出走せず、オークス一本狙いになるので気にならない評価。
だが、ルビーレイは桜花賞からオークスを狙うのだが、この評価の低さが宮藤は憤慨させてしまっている。
とはいえ、流石に出版元に喧嘩を売るような行動はせずに自重していたが、この恨みは競馬で果たすと豪語している状態だった。
実際に名雪も生産馬の評価が低い事は憤慨しているが、この現状を打破するには勝利以外ないのは分かっているので、不満を口にはしない。
「うちとしてはそろそろクラシック制覇してもらいたいし、2頭には頑張ってもらわないと」
と、名雪は競馬雑誌を読みながら、願いを口にして別のページを読み進めていった。
そして、世間の学生が春休みになった時に予定通り、北川と斉藤はKanonファームに臨時で働いている。
短い期間とはいえ出産時の待機だけではなく、牧場業務も含まれているので激務状況に手を焼いていた。
「おいっ、水瀬……元からこっちもやらせるつもりだったのか?」
「うん。何を今更」
名雪は悪びれた様子も無く、あっけらかんとした表情で北川の質問に答えたので、当の本人は予想通りの答えに脱力してしまっている。
既に北川の表情はばてており、如何に過酷な事を物語っているのが分かる。
因みに斉藤は夜間にベテランと一緒に出産を待っていたが空振りで終わってしまった為、現在は寮で休憩中である。
「あはっ。寝られる時間がある分、マシだよ」
「……そういえば、そうだな」
名雪の苦労が分かってか、北川はそれ以上追求する事も無く牧場作業をこなしていった。
そして、本日は出産待ちの為に厩舎で待機するのは、名雪と北川の2人となり、身を震わせながら厩舎に向かう。
休憩室では競馬の話をしながら待つので、お互いに時間潰しには最適だった様で話が弾んでいる。
「さて、そろそろ見張りの時間だから行こっか」
「うい。で、オレはどうすれば良いんだ?」
「今は特にやる事が無いし、馬の挙動さえ見ていれば良いよ」
名雪はそう言ってから、出産する前の繁殖牝馬が行う挙動を丁寧に教えてから厩舎内の見回りを開始。
すると、出産しそうな兆候の繁殖牝馬――イチゴサンデーの姿が見受けられたので名雪は北川に指示を出して、タオルを取って来る様に頼む。
名雪は馬房の外から様子を伺って、出産するまで待つしか無い。
そして、暫くすると破水して羊膜と共に仔馬の前脚が出たのを確認すると、名雪は馬房に入って母馬に負担を与えない為に、一気に仔馬を引っ張りだす。
ズルリと羊膜に包まれた仔馬を引っ張り出し、名雪は馬体に絡まっている羊膜を剥がして北川が持ってきた大量のタオルで仔馬の身体を拭く。
イチゴサンデーの97はキチンと息をしており、後は立ち上がってから母馬から初乳を貰えるかが問題。
立ち上がるまでは40分前後掛かったが平均的な速さであり、馬体はスラリとしているのが分かる。
そして、仔馬は乳を吸うために母馬に近づく。
イチゴサンデーは嫌がる素振りを見せず、無事に初仕事をこなした事を確認し、名雪は安堵を込めた吐息は吐く。
「お疲れ様。北川君」
「お、おう。お疲れ……妙に感動できるシーンだな」
「うん、そうだね。でもこの後は故障や怪我をせずに競馬場へ送り出すのがわたし達の仕事だよ」
名雪はそう呟き、欠伸を漏らしながら休憩室に戻っていった。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。