3月になり、徐々に春の麗らかさを感じられる季節が北海道でも近づいており、雪解けによって新芽が雪の中から伸ばす。
新たな生命――0歳馬の誕生がする時期でもあり、各牧場は慌ただしく産まれた事に一喜一憂しながら過ごしていく。
Kanonファームも類に洩れず、牧場作業をこなしながら出産を見守るという状況が日々続いている。
精神的にタフな水瀬家の者でも、この時期だけは苦労と睡眠不足の日々の為、疲労困憊が顔に浮かんでしまう。
それでもサラブレッドを生産しないと、自身の首が回らなくなってしまうので、こんな所で留まっている訳にはいかない。
「……うう、体力が持たないよ」
こんな軽口を叩くので、まだ幾分か余裕はあると思われるが顔色は少々悪く、ぐったりとしているので疲労が溜まっているのが伺える。
「この時期は本当に大変そうね」
「そう思っているなら手伝って欲しいよ……」
香里は名雪の愚痴を聞くために対面に座っており、頬杖を突きつつ心底から名雪の行動力を感嘆しているようだ。
だが、流石に牧場作業を手伝う事は嫌なのか香里は分かり易い位に顔を顰めてしまう。
この時期の苦労が分かっているからこそ、香里自身は手伝うのは難しい事だと理解している。
下手に馬の扱いを間違えれば死亡してしまう可能性もあるので、名雪の発言は猫の手も借りたい程だからこそ口に出た言葉。
「あたしよりも手馴れたお2人がいるじゃない」
香里は教室内で馬鹿している2人――北川と斉藤を軽く顎で指して、何かを感じたのか2人は逃走を試みる。
だが、名雪の瞬発力から逃れる術がある訳でもなく、あっさりと捕まってズルズルと情けなく引き摺られた2人の姿が。
「まったく……わたしの顔を見て逃げるなんて酷いよね」
「……そうね」
「おい、こら。俺達を売った美坂が言っても説得力無いぞ」
「売っただなんて人聞きが悪いわね。あたしは名雪に案を授けただけよ」
「その結果がこれじゃねーか」
北川は名雪が掴んでいる自信の襟首を指差しつつ香里に文句を言うが、当の本人は悪びれた様子も見せずに、慈悲のような笑みを浮かべている。
名雪も人手が確保出来たので、香里に対しては一切追求せず2人の意見を聞く事無く、今回の作業内容を教える。
「と言う訳で、厩舎で待機している簡単なお仕事だよ」
「それ簡単じゃないだろう」
前回、名雪の巧みな誘導で騙された斉藤は突っ込みを入れてしまうが、名雪はその突っ込みを無視して話を続ける。
「1人で対応する訳じゃないし、ちゃんとベテランの人も一緒にやるから大丈夫だよ。まぁ、1番苦労するのはその日に産まれないで寝られない事だから」
サラリと名雪は苦労する部分を吐露し2人を怯えさせてしまうが、名雪は断らないと踏んでいる様だ。
そして、2人は渋々ながら承認してしまい、名雪は喜色満面の笑顔でお礼を言うと2人は照れた様な表情になってしまった。
「じゃあ、春休みからよろしくね」
「ああ、その時はよろしくな」
と、名雪は2人と契約したという意味合いで拍手を差し出すと、2人もがっちりと握り返してきた。
今週の競馬は水仙賞――500万下特別にタツマキマキマスカが出走。
前走の新馬戦が楽勝だった為か今回も期待されているので、ここを勝利してクラシックに向けて賞金を加算させたい所。
ここを勝利出来れば、桜花賞は厳しくてもオークスに向けてのトライアル――フローラSに出走しやすくなるのだから。
同週のきんせんか賞にはピクシーダンスが2勝目を狙って、前走の変わり身を見せて勝利するか期待したい所である。
ピクシーダンスは前走で控える競馬が出来たので、今回こそは結果に結びつく走りを見せて欲しいといえる。
まずはピクシーダンスが出走するきんせんか賞は5番人気とそこそこ支持されていたが、今回は3番手から控えた競馬で無事に勝利。
平均的なペースで進んでいたので、逃げ馬でもあるピクシーダンスには走りやすかった様で、直線の半ばから抜け出して2着を半馬身抑える。
これでOPクラスに昇格したが、これからがピクシーダンスの正念場である。
翌日は水仙賞に出走するタツマキマキマスカだが、人気は1戦1勝馬だからか2番人気に支持。
本来なら1番人気に支持されてもおかしくないが、レース経験が少ない事が裏目に出ると見られているようだ。
だが、それを覆す走りで1番人気に支持されていたマーベラスタイマーを蹴散らして無敗ままフローラSに向けて、良いスタートを切れた。
ピクシーダンスとタツマキマキマスカは揃ってOPクラスに昇格し、ひとまず現状だけは、重賞路線の楽しみが出来た事に。
戻る ← →
この話で出た簡潔競馬用語
注1:マーベラスタイマー……この時点では3戦1勝2着2回の馬。