アイシクルランスは5番人気ながら、ダンスインザダークに肉薄したが後一歩が及ばず――近いようで遠い鼻差が届かなかった。
あれだけの激走をしたにも関わらず数cmの差で敗れたのだから、運ではなく実力で負けたに等しい。
残り1000mの時点から仕掛けて、斬れる脚を持たないアイシクルランスには持続力を活かしたレースに持ち込めたが、最後の最後で交わされた。
展開は申し分なかったが、ゴール直前でするりと勝利が掌から零れてしまったのだから、勝利の女神は微笑まなかったのだろう。
この結果で間違いなくアイシクルランスの評価は上がったが、負けた状況で評判が良くなっても次走の結果次第ではフロック扱いされる。
ある意味、正念場に立たされたのはアイシクルランスの方で重賞が未勝利の分、厳しい戦いを強いられていくのだから。
「あー、もう」
名雪は机の上に項垂れている状態で、そのため長い髪が顔を覆い尽くして傍目から見れば不気味な物体に見えてしまうだろう。
制服にしわが寄ってしまうにも関わらず名雪は机に突っ伏して、時折頭を抱えて唸っていた。
そのためか名雪の傍に近づく同級生はおらず、遠巻きから様子を伺っている生徒が多数。
この状況が分かるのは、香里、北川と斉藤の3人だけであり、幼馴染の香里は名雪がここまで項垂れるのを珍しそうに眺めている。
「今日1日は荒れそうね」
「あれだけ項垂れている水瀬を見られるのは珍しいな」
「あの結果だしなぁ、俺でもあの差で負けたら非常に悔しいのが分かる」
他の生徒よりも事情が分かっている3人も簡単には近づけない様で、遠巻きから溜息を吐くしかなかった。
とは言え、流石に1日中あの状態で居られると、3人も気分が滅入ってしまいそうなので、名雪を宥める為に近づいていく。
「名雪、その格好は出来るだけ止めてくれない?」
「んー、まぁ良いけど……はぁ」
名雪は相変わらず、うつ伏せになったままだが、顔だけはしっかりと香里の方を向いて話をし始める。
名雪が意気消沈しているため、それが感染したのか呆れた香里は深く溜息を吐いてしまう。
「ほら、負けたんだからスッパリと諦めなさいよ」
「そうは言うけど、初のクラシック制覇が間際だったんだから、こうもなるよ」
名雪の言いたい事は香里にも分かるのだが、クラシックの重みが極めて大きいと言う事をハッキリと今知った。
何10年も歴史ある重賞――G�気�手に届く頃まで伸びたにも関わらず、勝利の女神の気紛れでダンスインザダークに栄光が。
その事がどれだけ名雪を悔しがらせているかがハッキリとしており、競馬に余り関わっていない香里では説得力不足だった。
香里はお手上げと言いたそうにチラリと北川と斉藤の方に向いて、肩を竦めてしまう。
安易な言葉では名雪を慰める事は不可能だと判断したのか、香里は一旦名雪の傍から離れていく。
「あたしだと名雪の説得は無理ね」
「オレ達でも無理そうだな」
やれやれと3人は肩を竦めてしまうが、それでも心配そうな表情を名雪に向けている。
この3人は名雪よりも競馬知識が浅いため、名雪がクラシックに掛けている想いは計り知れないのだから。
こうして授業が始まると、うつ伏せになっていた名雪は身体を起こして、ぼさぼさに乱れた長い髪を整える事が無く、授業を受ける。
どんよりと力無い目をしており、普段よりも覇気が無い表情は鬱憤とした物を抱え込んでいるのがクラスメイトにも分かり始めた様だ。
普段は凛としており誰もが話しやすい雰囲気を持つのが名雪だったが、今日は話しかけられる様な状況ではないと言う事を。
一応、真面目に授業は受けているようだが、名雪はノートの隅に菊花賞の展開――タイム、ペースを書き込んで計算をしている。
数学の授業だった為、ノートの隅に数字を書き込んでも咎められる事は無く、一般人が見ても競馬のタイムは判り難いのだから。
ノートの空白には後1秒仕掛けが遅かったら、などと仮定の事が記入されている。
そのうち、名雪は京都競馬場の形をした長円を小さく描き、残り1000mの位置から仕掛けた時の各馬の位置取りも加える。
トントンとシャープペンのペン先でノートをノックしながら名雪は黒板を見つつ、誰にも聞こえないように溜息を吐く。
今年の菊花賞は2000mまでのタイムが極限のスローペースだったので、残り1000mから仕掛けた騎手の判断は間違っていない。
ただ上がり3ハロン33.8秒と言う破格な切れを発揮したダンスインザダークに勝つには、1ハロン12秒台を維持したまま必要があった。
その事をノートの片隅に書くと、名雪はグリグリとその部分が黒くなるまで
塗りつぶし、もう一度溜息を吐いてしまった。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。