名雪がクラスの友人である2人――北川と斉藤にバイト情報を教えた翌日に指定の時間通りにKanonファームにやって来た。
ボストンバッグに衣類などを詰め込んでいるのか、バッグを肩から提げたまま、情けない表情でメモに記された住所と看板の下に記されている住所を見比べ中。
名雪が手渡したメモには住所のみしか記入されていなかったので、2人は事業の情報はまったく知らなかったのが災いして入り口の前で立ち竦んでいる。
そんな様子を名雪は2階にある自室の窓から、気付かれない様にコッソリと楽しんで眺めている状況。
埒が明かないと思ったのか北川は道路沿いの柵に近づいて、名雪が居ないか探しているようだが、そこから見えるのは広大な放牧地と馬だけ。
牧場の広大さを感じ取ったのか北川は暫しその場から動かなくなり、斉藤も北川の傍に近づいて、放牧地を眺め始めてしまう。
流石にこれ以上放置しておくのは時間の無駄だと思ったのか、名雪は窓を開けて2人を呼ぶ。
「北川君。斉藤君。こっちだよー」
名雪は2人の名前を呼んでから手を振ると、2人も手を振ってくるが普段よりも微妙に動きが硬くなっていた。
2人の心情が何となく分かったのか名雪は苦笑いを漏らしてから、入り口まで迎えに行く。
「本当にここが水瀬さんの家なのか?」
「うん、そうだよ。この事を知っているのは香里だけだし、知っている人は少ないと思うよ」
名雪は家に戻り北川と斉藤が家に上がる許可を出すと、2人を連れてリビングに向かう。
適当に座っていて、と名雪は一言だけを伝えて、キッチンに来客用のコーヒーを淹れに行く。
その間に北川と斉藤はサイドボードに飾られており、金色に輝く重賞制覇時に貰う優勝カップを眺め始める。
主に目が付いたのはウインドバレーのフェブラリーSやミストケープのエリザベス女王杯にイチゴサンデーのアメリカンオークスだろう。
「まさか、イチゴサンデーの生産者が水瀬の家族だとは」
「と言う事はここの牧場は結構、大手牧場と言えるな」
手にとって眺めるという愚行は行わないが、穴が開くほどジックリと優勝カップを眺めているのは、競馬ファンらしいとも言える。
こんなに間際で見られるのは競馬関係者ぐらいなので、北川と斉藤がこれだけ眺められるのは幸運に過ぎない。
「良く、優勝カップを長時間眺めていられるね」
名雪は自身が飲む分を含めて、トレーに3つのアイスコーヒーとミルクにシロップを乗せて、リビングに戻ってきた。
名雪にとって優勝カップは唯のオマケに過ぎないので、それ程の価値がある訳では無い。
ダービー制覇と言う最大の目標が結果になるまで、今は過程にしか過ぎないのだから。
「そうは言うけど俺達からしてみれば、間際で見る機会なんて無いから羨ましいぞ」
「そういうものなの?」
「そういうもんだ」
名雪は2人の前にアイスコーヒーを置きながら、北川に向かって質問をすると相槌が返ってきたので納得したようだ。
暫くの間、2人は優勝カップ観賞を夢中になっており、アイスコーヒー飲みながら眺め続けていた。
そして、名雪が仕事内容を説明し終わった時に秋子と秋名が戻って来たので、2人を紹介する。
2人は畏まった口調で挨拶をするが、秋子が名雪の母親だと判明すると驚嘆を含んだ表情で口を開けて固まってしまう。
初めて秋子に出会った者からしてみれば、何処から見ても秋子は20代にしかに見えない位、若々しく名雪の姉としても通用するのだから。
なので、2人が驚嘆してしまうのは無理が無い事であった。
更にKanonファームのオーナーブリーダーである事も分かると、ますます驚嘆してしまったようだ。
流石に2人でも女性の年齢を聞く勇気は無かった様だが。
そして、紹介が終わると名雪が引率してKanonファーム敷地内の案内を行っており、ボストンバッグを掲げた北川と斉藤が後ろから付いて来る。
「随分と広いんだな」
「15ヘクタールあるからね。これでも大手の牧場に比べると規模は小さい方だけどね」
各放牧地と隣接している厩舎を紹介しつつ、現在放牧されている現役馬と繁殖牝馬も紹介していく。
「あそこに居る栗毛がエリザベス女王杯を制したミストケープで、少し離れた場所に居るのがアメリカンオークスを勝利したイチゴサンデーだよ」
名雪が指差した場所を見やって2人は歓声を上げてから柵に近づいて、じっくりと牧場風景と共に眺めていた。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。