夏休み直前の学校は騒々しく生徒内で遊びの予定などを立てられていくが、名雪には夏休みなどは関係無いイベントに過ぎない。

     昔から、この生活――生産馬の世話が長年の行為で身に付いている為、馬優先主義に近い生活になっている。

     今更、普通の高校生らしい生活は無理だと分かっているのか、名雪はこの事に関しては達観しているのだから。

     本来なら着飾ればスタイルの良さ――適度に付いた腕の筋肉に、スラリとした細くて引き締まった脚と健康的に日焼けた白い肌。

     と、他の女性が羨ましがる要素を持ち合わせているのだが、名雪本人はそんな物に興味を持たないで、機能美を優先した格好の方が多い。

     閑話休題。

     名雪は前日に秋名に言われた事――バイトとして使えそうな人物として祭り上げた2人の元に向かっていく。

     2人は椅子に座って向き合ったまま何やら業界用語を話している為、他人からは近寄りがたい存在に見えている事だろう。

     だが、名雪からしてみれば一般的な競馬用語であるので、臆せずにスタスタと近づいていく。

 

    「やはり、最近はサンデーサイレンスの独壇場だな」
    「あれだけ走る産駒を出せば普通の種牡馬は一発屋で終わる筈だけど、途切れないものだな」
    「でも、1年目であっさりとノーザンテーストの牙城を崩す種牡馬だとは思わなかったよ」

 

     北川と斉藤は名雪が横から会話に割り込んだ事に気付かないで、そのまま会話を進めようとしたのだが、違和感を持ったのかお互いに頷き名雪の方に向く。

     ニコニコと名雪は笑みを絶やさないで2人に向かって、あいさつをする様に手を挙げている状態で、2人はギョッと驚愕の表情を浮かべて逃げようとする。

     当たり前だが空馬を逃さない様に追い掛ける事がある名雪の瞬発力には、到底敵うものでは無いので、あっさりと2人は襟首を掴まされてしまう。

 

    「まったく、酷いなぁ。わたしの顔を見て逃げるなんて何か疚しい事でもしているのかな?」

 

     その笑みは張り付いたように恐怖感を煽られるもので、捕まってしまった2人には反論出来る様な状態ではない。

     すると、この事態を頬杖付いて眺めていた香里が名雪の傍に近づいて来たので、北川と斉藤は救助に来てくれたと思ったようだ。

     だが、現実はそう甘くは無くない。

 

    「名雪、これをどうするつもり?」
    「ちょっと込み入ったお話をするだけだよ……香里も聞く?」
    「……遠慮しとくわ。どうせそっちの話でしょう」

 

     物扱いにされてしまった2人は反論しようとするが、名雪と香里のツープラントからの攻撃に対して余地は無いに等しい。

     そんな訳で、と名雪は香里に向かって一言呟いてから、ズルズルと2人の襟首を掴んだまま移動していった。

     香里は哀れんだ表情を北川と斉藤に向けたまま、ひらひらと手を振って見送ってしまった。

 

 

     ズルズルと、他の生徒から好奇心を浴びながら2人は名雪によって引き摺られ、屋上へと続く階段の中間部分にある踊り場で話をする事に。

     屋上の扉は閉場されているので、誰もこの場所に来る事が無いので周辺には埃が積もっている。

 

    「ここなら、誰も来ないしゆっくりと話せるでしょ?」

 

     ニコリと名雪は笑みを浮かべてから階段の手摺りに寄り掛かり、腕を組みつつ見上げるような格好で2人の顔を見ている。

 

    「んで、競馬やっているんでしょ。北川君から聞いたと言うより、教室で馬券検討をしていれば分かるよ」
    「グッ……で、水瀬さんの用件は何だ?」
    「まぁ、そう慌てなくて良いよ。誰かに口添えする訳じゃないし」

 

     斉藤は主導権を握られている事が分かったのか、悔しそうに俯いてしまってしまう。

     北川も同様にあの時の行為を悔やんでいるようだが、名雪に弱みを握られた時点で既に負けは決定している。

 

    「それで、勝率はどれくらい?」
    「えっと……1週間で5レース当たればマシな方です」
    「なるほど。相当、お金が無いためピーピーした生活を送っていると」
    「はい。その通りです」

 

     既に北川と斉藤は名雪に逆らえないと言う雰囲気を察したのか、丁寧語で名雪からの質問を返答。

     うんうんと、名雪は頷いてからバイトの案をゆっくりと2人に伝えだす。

 

    「と言う訳で、家で夏休み期間の3週間だけバイトしない?」
    「何故、と言う訳で、だか分からんのだが」
    「そっちは殆どデメリットが無い筈だけどなー。給料はちゃんと出すし、馬券で飛んで行ったお金も補填出来るけど」

 

     得られる給料が約12万、と名雪がこっそりと北川に耳打ちする。

     北川はその給料の高さ――3週間で得られる金額に唾を飲み込んでしまい、ゴクッと喉を鳴らす。

 

    「明るい職場で簡単な作業だけど高給だよ。後は美味しい料理が3食毎日食べられるよ」

 

     どれも名雪が言っている事は嘘ではなく事実なのだが、作業時間に関してはまったく口にしていないが、2人の心は既に傾きかけているだろう。

     約16時間近くも作業すると分かったら間違いなく、この話はご破談してしまうので、名雪は巧みにそちらに話題を振らない様にする。

 

    「で、やる? やらないなら代わりとして香里が候補に上がるけどね」

 

     名雪は最後にそれだけを口にしつつ階段を下りようとして、2人から背を向けて、1歩1歩離れていく。

     そして、見事に釣り針の餌――高給と言う餌に食い付いた2人は名雪を慌てて呼び止めてしまう。

     名雪は背中を向けたまま、ニヤリと口端を吊り上げてから何事も無かった様にスカートのポケットに仕舞い込んでいたメモ用紙を2人に手渡す。

     そのメモ用紙にはKanonファームへの住所が書かれた物だが、牧場名だけは内緒の意味を込めてあるので書かれていない。

 

    「じゃあ、明日の午後1時からここに来てね。3週間寮生活して貰うから、衣類とかはキチンと持ってきてね」

 

     名雪はそれだけをしっかりと伝え、教室に戻るため階段を下りていった。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特になし。