ミストケープの初年度産駒はヒョロヒョロした馬体でキュウリに割り箸を刺した馬の置物の様な馬体。
大抵の初年度産駒は馬体が小さいのが産まれやすいので、例外から洩れずにミストケープの96も小さかった。
現在は母馬であるミストケープに寄り添う格好で初めての放牧に出されている状況なので仔馬にとっては初めて見る物ばかりで、視線を彷徨わせている。
クルクルと瞳が初めて見る物を捉えているが、まだ近づいていくと言う好奇心は無い様でミストケープの横で引っ切り無しにくっ付いたまま。
逆にブルーフォーチュンの初年度産駒はミストケープの仔馬よりも1週間早く誕生したにも関わらず、既に放牧地を駆け回っている状況。
馬体は小さいが、黒毛が周囲の雪風景に反発し合う様に一際目立つ動きを披露している。
時々、ミストケープの96にちょっかいをだして遊ぶ事があるのだが、ブルーフォーチュンが鼻息を荒くして呼ばない限り長時間続けられている。
ミストケープは不干渉に徹しているので、母馬としては放任主義の可能性が高い。
それでも仔馬が母乳を欲しがっている時にはキチンと与えているので、手の掛からない事は歓迎出来る事柄。
「子煩悩過ぎる訳でもなく適度な扱い方を得ているから、仔別れの時は苦労しなくて済むかもね」
「ミストケープの方は淡々としていそうだが、仔馬の方はあれだけべったりしていると、嘶きが長引く可能性もあるだろうな」
「逆にブルーフォーチュンの96の方は1日ぐらいで立ち直りそうですし、他の仔馬を引っ張ってくれそうですね」
3人はそんな会話をしながらも和らげな表情を醸し出しており、仔馬の可愛さに心を躍らせているのが伺える。
まだ見ぬ――誕生していない他の仔馬次第だが、間違いなくブルーフォーチュンの96は中心となり他の馬を引っ張る存在だろう。
今日も今日とて反撃が出来ないミストケープの96にちょっかいを出しては放牧地を駆け回って、自由を謳歌しているブルーフォーチュンの96だった。
最近のKanonファーム生産馬は停滞した結果が多く、なかなか勝ち上がっていかない。
まずは3歳OPクラスに在籍するルビーロウがアーリトンCに出走したのだが、NHKマイルCへの足掛かりにはならなかった。
その結果はいつもの様に先行の位置取りから仕掛けていったが、伸びが悪く5番人気に支持されながら10着と惨敗してしまった。
その時の宮藤綾乃はまるで狂った様に怒り心頭の表情で物に当たる事は無かったが、怒髪天を衝くと言う表現が当て嵌まる顔だったと関係者の談。
と、生産者である秋子を招待しようとしていた宮藤の秘書は、そんな事をこっそりと秋子に耳打ちしてしまっていたので、秋子は苦笑いを浮かべるのみ。
初の重賞挑戦となれば馬主ならば誰もがドキドキとして、勝利する事を祈るのだが、簡単に手を伸ばしても届かない物だと実感出来る。
秋子自身もその様な事は体験済みなので今では取り乱す事は無いが、悔しさが募るのは毎回なのだから。
「あっさり勝利すると思っていましたのに、この結果には納得できませんわ!!」
「……そんなもんですよ」
秋子は激高している宮藤を咎める事も無く、半分スルーする格好でテーブルの上に置かれているコーヒーカップに手を付ける。
愚痴を言いに来ただけの様に思えるが、秋子にとっては生産馬を購入しもらった人物にあたるので蔑ろには出来ない。
ズズッ、と秋子はコーヒーカップに口を付けたままチラリと熱弁している宮藤の様子を伺いながら、そこそこに相槌を打つ。
しばらく熱弁していると宮藤はスッキリした様で、口直しとして秋子が淹れたコーヒーを優雅な格好で口を付ける。
「相変わらず、貴女が淹れるコーヒーは美味しいですわ」
「あら、ありがとうございます……本来のご用件は何でしょうか?」
「せっかちですわね。まぁ、今回の用件はルビーロウの下を譲ってもらおうと思いまして」
宮藤の用件はフラワーロックの下を購入するのが目的だったようで、現3歳OPクラスに在籍中のルビーロウの成績が良い方だと納得しているようだ。
つまり、ルビーロウの下を購入する事はご祝儀の様なもので、どこの馬主も上が活躍すれば下も購入する割合が多いので、宮藤もそれに倣ったに過ぎない。
秋子は宮藤を暫し待たせてサイドボードの引き出しに仕舞ってある血統証明書を取り出して、2枚の血統書をテーブルの上に並べる。
「2歳馬ですか? それとも1歳馬ですか?」
秋子は宮藤が見えやすいように2枚の血統証明書を並べて、宮藤の様子を伺う。
そして、宮藤が躊躇無く選んだ――血統証明書に手を伸ばしたのは1歳馬の方。
その血統は父がダイナコスモスとマイナーなので、現2歳馬の父リヴリアよりもマイナー好みの宮藤が選んだ理由はその1点に尽きる。
人差し指と中指に血統証明書を挟み、ピラピラと指先で弄んでいる宮藤だがこれで交渉は成立したようなもの。
後は秋子が値段の交渉を行うだけで売買が成立するので、如何に値段を付けるかが問題。
庭先取引になるのでセリ市に出した時よりも安くしなければならず、逆に高すぎても売買は不成立になってしまう。
秋子が出した結論は450万。
これが黒字にも赤字にもならない値段になるので、秋子としては譲歩した値段に違いなかった。
「……その値段なら購入いたしますわ」
「今後ともよろしくお願いしますね」
ニコリとお互いに笑み――若干、腹の探りあいに近い笑顔を浮かべながら、無事にフラワーロックの95の売買は成立した。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。