少しずつ春の麗らかさが北海道に到来し始めて、積もった新雪の下から春の息吹が感じ取れる草葉がチョコンと芽を出している。

     季節は3月。

     幾多の牧場が繁殖牝馬の出産時期にあたるので、大手を除くと何処の牧場も人手で足りないで、てんてこ舞いになってしまう時期でもある。

     仔馬が産まれるまで厩舎内の休憩所で待ち、その日に産まれなければ翌日も同じように待機しなければならない。

     これだけではなく馬に飼い葉を与え、放牧と厩舎掃除も行わなければならないのだから、過酷さは極まっているだろう。

     そんな中でKanonファームは主に交代制で繁殖牝馬を監視中だが、本日待機している名雪は眠たげな表情だが欠伸を噛み殺そうと悪戦苦闘中。

     瞼も重いようで仕切りに人差し指で優しく瞼を擦っており、時折露になる鋭い目付きも今日は影に潜めて、儚げで柔らかい表情は絵になっている。

     名雪が見守っている繁殖牝馬はミストケープ――G�鞠呂蕕靴気呂垢辰�りと四散した状況で黒い瞳が不安げな様子を醸し出している。

     ミストケープは漆黒の瞳を名雪に向けながら、ガサガサと寝藁が蹄で擦れている音を響かせながら馬房内を闊歩中。

     同じく初産となるブルーフォーチュンは既に1週間も予定より早く出産を済ませていたが、早産だったため馬格が小さいのが特徴。

     ミストケープの出産を見守る合間にブルーフォーチュンの96――牡馬の様子を見る為に馬房の引き戸の隙間からひょっこりと顔を覗かせる名雪。

     母馬であるブルーフォーチュンに寄り添う格好で佇んでいたが、名雪の気配に気づいたのか母馬から離れて、壁にくっ付いて隠れたつもりになった様だ。

     その様子に名雪は声を出さずにクスッと笑みを浮かべてから、これ以上覗くのは悪いと思った様で、スッと出来るだけ音を立てずに馬房から離れる。

     再び、ミストケープの馬房前で様子を伺うが不安げな瞳が名雪を捉えたまま放さない。

     名雪はまだ産まれるのには時間が掛かると判断したのか、シンプルだが銀色に鈍く輝いている腕時計を眺めてから溜息を吐いてしまう。

 

    「……ふぁ……2時になっちゃったか」

 

     名雪は薄っすらと白い吐息を吐き出しつつ、ギュッと寒さで震える身体を自身の手で抱きしめたまま休憩所に戻っていく。

     厩舎内にはストーブと言う冬の寒さに打ち勝つ文明器具は火気厳禁の厩舎内では、暖を取れる唯一の場所が休憩所しかないのだから。

     やや色褪せてボロボロになった手袋越しに手を擦り合わせながら、名雪はストーブの前に置かれている椅子に腰掛けて、冷えた手を温めていく。

 

    「早く産まれてほしいなー……くちゅん」

 

     可愛らしいクシャミを漏らしながら名雪は流石に眠たさから文句1つを言い、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかる。

     休憩所の室温は既に暖かい風が立ち込めている状態なので、先程よりも名雪の上瞼が閉じそうな状況に。

 

    「仮眠したら……完全に眠っちゃうだろうし、コーヒーでも飲もうっと」

 

     ポットに詰め込んでいたお湯の残量を確認してから、名雪は馬の絵柄が描かれたカップにインスタントコーヒーの粉を大量に入れてしまう。

     そして、適度にお湯をコポコポと音を立てさせながら注いで、ミルクと砂糖を入れないでブラックのまま口に付ける。

     普段飲むコーヒーよりも味の質が落ちてしまうインスタントコーヒーに美麗な眉をしかめてしまう名雪。

 

    「うう……あまり美味しくないなー」

 

     秋子が淹れたコーヒーの味に慣れてしまった弊害で名雪の舌はインスタントコーヒーを受け付けなくなったようだ。

     名雪は文句を言いながら、眠気を覚ますためにしっかりとコーヒーを飲み干すが、味はやはり受け付けなかったのか顔を顰める。

     それでも、身体が温まったのは確かなので名雪は、ほぅっと安堵感を込めた吐息を吐き出す。

     それから、30分程時間が経過した頃だろうか、名雪は馬房内で闊歩する音が大きくなったのが気づいたのか、音の発生源である馬房に近づいていく。

     そこは先程、名雪の顔を不安げな瞳で覗いていたミストケープの馬房で、寝藁を激しく蹴散らしながら、グルグルと同じ所を周回し続けている様子が。

 

    「もう直ぐ産まれるかな……タオルとか準備しておかないと」

 

     そう言いながら、名雪は長い髪が邪魔にならないように簡単な形で一纏めにしてゴムで縛る。

     名雪がタオルなどを休憩所から取りに戻ると、ミストケープは馬体を横に倒し、破水し始めていた。

     しばらくすると羊膜が出てきて、仔馬の前脚がキチンと出てきた事を安堵して、名雪は仔馬の前脚を掴んで母馬の胎内から引きずり出す。

     こうしないと牝馬の馬体に負担が掛かってしまうので、早急に行う必要が。

     産まれた仔馬はミストケープの影響――毛色を濃く受け継いで栗毛の馬体が羊水によって濡れそぼっている。

     ミストケープの初年度産駒は牡馬で、今見た感覚では誰もが可愛いとしか思えない程、クリッとした瞳が特徴。

     名雪は丁寧に仔馬の馬体を綺麗なタオルで拭きつつ、ミストケープが後産で胎盤を排出するのを待つ。

     無事に排出されたのを確認すると、後は仔馬が立ち上がるのを待つだけで元野性の本能なのか1時間以内には立ちそうな雰囲気。

     少し仔馬はふらついているが無事に立ち上がった事を名雪は確認すると、最後の問題として一番重要な初乳を与えるのを見守るだけ。

     仔馬はミストケープに近づいて母乳の位置を探し、ミストケープは仔馬の匂いを確認して馬体を舐める。

     そして、仔馬が母乳を吸う事を確認出来た名雪は、ガッツポーズをしてから今度は自分が疲労でフラフラになっている事を思い出したようだ。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特になし。