アイシクルランスが未勝利戦を勝利した事で3人はホッと一息吐いた位で、安堵感がリビングを漂わせてしまう。
この1勝が次への足掛かりと信じて3人の表情は先程と違い安堵感を漂わせていたものが、すっかりとリビングから四散していく。
1勝の重さが分かっている3人にとっては、この勝利が無駄にならない様に次へとしっかりと繋げる必要があるのだから。
たとえ、未勝利戦だとしても勝利したと言う事実は決して揺らぐ事も無く、真実として誰もが忘れても記録には残る。
この記録を誰からも忘れるほど薄められない様に記録から記憶へと残るように、とするため名雪は動き出す。
名雪は調教によって馬を鍛え未勝利で終わらない事を祈りながら、心を鬼にしてタイフーンに騎乗し、1歳馬の後方から猛獣の様に鋭く追い駆けさせる。
アイシクルランスの勝利は名雪の手で短期放牧中に調教されていたので、今回の勝利によって自信と言う言葉が名雪の中にしっかりと根付いた事だろう。
そんな調教様子を秋子と秋名はリビングにある窓の傍に佇んで、真剣で曇りなき瞳で眺めている。
手に持っていたコーヒーカップとソーサーを出窓の縁に置き、雪がチラチラと降り注ぐ中で、青毛の馬体が際立って見える。
「名雪の腕前は随分と上達してきましたね」
「タイフーンを上手く制御しているからな。あれだけ乗れれば1歳馬の育成も大丈夫だろうな」
秋名は女性らしさを強調する様に豊胸の下に腕を組みながら、タイフーンの動き――名雪の姿勢を目で追っている。
昔は秋名が基本的に調教を行っていたが、今ではすっかりと名雪に役割を奪われた格好だが、その表情は実にスッキリとした顔を覗かせていた。
秋名にとっては名雪は姪の関係にあたるが、名雪を見る表情を娘の成長を喜ぶ親の心境とまったく変わり無いだろう。
「これだけ上手く騎乗できるのならば、わたしとしては近い内に牧場を受け継いでもらいたくなりますね」
さり気なく火薬が大量に詰まっていそうな爆弾発言を投下する秋子だが、元から名雪に牧場を継がせる事は決定していたので、秋名は驚きもしない。
しかし、秋子が言った“近い内”と言う部分には調教様子を眺めていた秋名でも流石に秋子の方に振り返ってしまう。
「……随分と早急な話だな」
「元から名雪が高校卒業する時には牧場を譲るつもりでしたので、その点から言うとまだ先かもしれませんが」
秋子はそう口にすると出窓の縁に置いていたコーヒーカップを取り、やや冷え切ったコーヒーを口に付ける。
渋みが出たコーヒーの味に秋子は小さく眉を顰めつつ、話の続きを再開し始めた。
「いつまでもわたしが日高で牧場経営をしていると名雪が牧場を継ぐのが遅くなって、わたしも海外で牧場経営が出来なくなってしまいそうですから」
「向こうで牧場を設立して実績を出す頃には数10年ぐらいは必要かもしれないのも理由の1つか?」
「そうですね。そうなると名雪が生産した馬とわたしが生産した馬との激突と言うシチュエーションが叶わなくなる可能性がありますからね」
「……ダービー制覇の目標はどうするんだ?」
「逆に聞きますけど各国にいくつのダービーがあると分かっているのでしょうか?……そういう意味ですよ」
秋子は日本ダービーを勝利する事を目標していた事を切り替えて、各国のダービー制覇と言う大層なものに変更。
フン、と秋名は鼻を鳴らして目尻がつりあがって何時もより不機嫌そうな表情になっているが、口元は僅かに弧を描いて笑みが浮かんでいる。
秋子は秋名がこの話に乗る事が安易に想像していた様で、悪巧みが成功をしたのを嬉しそうに笑う。
「……姉さんも手伝ってくれますか?」
「はっ……何を当たり前の事を言っているんだ。私は秋子の姉だぞ。最後まで付き合うに決まっているだろう」
秋名は恥ずかしいのか、秋子の顔を見る事も無くそっぽ向く格好で調教様子を眺めてしまう。
そして、秋子が飲んでいたコーヒーカップをひったくる様な形で奪い取り、恥ずかしさを隠すためか、一気に呷って飲み干す。
完全に冷え切って不味くなったコーヒーの味に秋名は眉間に深くしわを寄せて、げんなりとした表情になってしまった。
クスッ、と秋子は口元に手を当てて秋名のやり取りに微笑を浮かべるその表情はキリリとした顔で
――ありがとうございます。
と、秋名に聞こえない程の囁く声でお礼を言った。
この事は名雪には極秘で進められる計画なので、調教を終わらせた名雪がリビングに戻ってくると先程の雰囲気とは違う感覚が名雪を包む。
名雪はその感覚に首を傾げつつも、本日の調教タイムを細かい詳細も交えて秋子に報告していった。
戻る ← →
この話で出た簡潔競馬用語
特になし。