名雪も冬休みが終わり、クリーニングに出していた冬用制服の袖を通して、学校に通う日々が始まる。
他の生徒に比べると名雪は朝から牧場作業も行わないとならないので、非常に濃密な時間を過ごしていると言えるが、本人は弱音を吐く事はしない。
この事を知るのは長い間友人である美坂香里のみで、名雪が釘を刺しているので緘口令が敷かれている状況。
あまり、競馬に関わっている事を知られたくない理由は単純にそれだけで近づいてくる人物が多いと予想が出来るからである。
なので、競馬好きな人物が名雪の事を気づいても、この事を口にしなければ名雪はあまり問題にしないのであった。
もしくは、教えても問題なさそうな人物を見つける事が出来れば、ひっそりと教えるつもりが名雪にはある。
簡単に言えば、“アルバイト”の確保を行うためで、競馬好きな人物なら合理的に生産牧場で働けるのは魅力的に映る筈であるのだから。
それだけ現在のKanonファームは従業員不足であり、15頭の馬――7頭の繁殖牝馬に1歳馬5頭と功労馬3頭も居る状況。
それを秋子と秋名、名雪に従業員2人の計5人で、作業を行っているのが実情として重く圧し掛かっている。
そんな訳であと1人か2人くらいは従業員が増えないと、これからが非常に厳しくなっていくのだから。
「おはよう北川君……何を読んでいるの?」
名雪は自分の席から斜め後ろの席に座っている男子――北川潤は名雪の声に気づいたのか、名雪に向かって挨拶をする。
「おう、おはよう水瀬」
北川は金髪にアンテナ――癖毛が1房チョコンと跳ねている髪型をしているので、非常に目立つ存在であり、クラスのムードメーカーを担いでいる存在。
名雪の視線が手に持っている雑誌の方に向いているのを気づいたのか、北川は雑誌の表紙を閉じてから名雪に見せびらかす。
その雑誌は競馬雑誌であり、名雪は北川が競馬する事を初めて知ったので極めて平常心で北川に質問を投げる。
「もしかして、それって競馬の雑誌だよね……馬券は買っているの?」
「……その点は御内密でお願いします!!」
名雪に看破されると一瞬のうちに北川は椅子に座ったまま器用に土下座をして、情けない格好を見せ付けてしまう。
名雪はニコリと笑みを浮かべつつ、北川の肩に手を置いてから何かを耳元で呟いた様だ。
まぁ良いか、と名雪は興味を無くした様なポーズをして、北川が落とした競馬雑誌をパラパラとめくっていく。
名雪にとっては既に読破済みの競馬雑誌なので、特に目ぼしい部分は1つも無いが、あくまでも競馬を知らない振りをしなくてはならない。
「何時頃から競馬やっているの?」
「最近、斉藤に教わって始めた所在でございます。はい」
相変わらず、北川は土下座の格好をしたまま名雪に屈服している状況。
ふーん、と名雪は納得したような相槌を打って、北川に競馬雑誌を手渡す。
そして、あくまでも競馬を知らない振りをして名雪は北川に競馬の事を質問し始めた。
先ほどの言質から見ると北川はまだ競馬初心者の様で、牧場の名前を覚える事は大手牧場のみと考えられる。
なので、Kanonファームの事はまったく知らないと言うのが名雪の出した結論に違いなかった。
「競馬は面白い?」
「そうだな……当たれば特に面白いって感じです」
北川の答えは至極単純で分かりやすい回答だったので、名雪は苦笑いを漏らしてしまう。
大抵はそんなもんかもしれないな、と北川は口に出して自身の考えを名雪に述べる。
そして、北川は競馬雑誌の特定ページ――レッドミラージュが500万下に出走したレースの結果を指差して
「この馬が1着になっていれば、それなりに配当が付いたんだけどな」
レッドミラージュを軸にした馬単か、3連単或いはワイドでも購入していたようだが名雪は極めて平常心で、一言声を掛ける。
残念だったね、と。
その言葉に北川はガッカリと肩を落としてしまい、斉藤が推奨レースだと太鼓判を押したレースだったとぼやく。
いくら賭けたかは不明だが、なけなしのお金が羽を生やして飛び去ってしまったと推測できる。
「ご愁傷様」
「うう……水瀬、恵んでくれないか? いや、恵んでください!!」
「お断りだよー。香里に頼んでみたら貸してくれるかもしれないけど、可能性は低そうだね」
北川はしばし情けなく唸ってから、ガックリと机に顔をくっ付けて深く溜息を吐いてしまった。
名雪は厭らしく笑みを浮かべ、タイミング良く教室に入ってきた香里に挨拶をし、その時に北川の身体がビクリと揺れたので香里は怪訝そうな表情に。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。