ここ数ヶ月は幸運ばかりが舞い込んでいたが、するりと掌から逃げ出してしまった。

     中央競馬の馬主、重賞3着、子馬の誕生などささやかな幸運があったが1つの事で崩壊した。

     それは、生まれたばかりの仔馬が死産していた事であった。

     以前、獣医に調べてもらった時には何の異常も見つからなかったので突然起きたとも言える。

     母馬は無事だったのが幸いと言えるが、それでもショックは引きずってしまう。

     生まれるのが遅れていたのが原因だったかはまったく不明であり、その為秋子のショックは計り知れないものだった。

     損失の問題ではなく、仔馬が死んだ事が秋子の心に深く突き刺さる。

     秋名は宥めようとするが、かなりショックが強く暫くは立ち直れそうも無い状態。

     牧場名が楠木牧場で父が馬主だった頃も馬の死はあったが、秋子がオーナーブリーダーになってからは初めてだからだ。

     勿論、サラブレットの死は慣れているが、自身が関わった馬の死は慣れたくないだろう。

     このように、時折どこの牧場でも仔馬が亡くなる事は度々ある。

     名も無き馬でも、一流の競走馬だって急性心不全で亡くなったりするのが、競馬の恐ろしさ。

     レース中に骨折して、処置の施しがしようがないと安楽死処分だってある。

     この墓地には亡くなった仔馬、繁殖牝馬が埋葬されているが、墓石の外見は貧相だが、亡くなった馬の馬名が書かれている。

     木々の真下にある墓は幻想的に日光が漏れており、空に道が出来ているように墓と光が繋がっている。

     天国では何時までも走っていられるように、秋子は願って仔馬の骨を埋葬する。

 

    「……やっぱり、これは慣れませんね」

 

     自分を抱くような格好をしながら、ささやくように言う秋子。

     名雪は秋子の脚にしがみ付いて、声を出さずに泣いており、祐一も同じように秋名に泣きついている。

 

    「……そうだな」

 

     秋名は咥えている煙草を持ち直して、紫煙を吐き出しながら呟く。

     紫煙はユラユラと風に吹かれながら、空に掻き消えていった。

 

 

     家に戻ると子供2人は泣き疲れたのか、ソファーに身を沈めて眠ってしまう。

     涙は止まっておらず、クッションには涙の後が染みとなって広がっている。

     名雪は祐馬が亡くなった時と同じように泣いているが、秋子は閉じこもって居たので、見たのは初めてかもしれない。

     秋子は2人を起こさないように、ゆっくりとソファーに腰を下ろして2人の頭を優しく微笑みながら撫でる。

 

    「あまり、この事は体験させたくないですね」
    「そうか? こういう事は早めに知らないと駄目だぞ」

 

     それもそうですが、と秋名の説得力に押されて語気が弱くなる秋子。

     暫く、2人は会話が無くなったので黙る。

     数分経った時には、秋名はもう一度煙草を咥えて紫煙を吐き出しながら喋る。

 

    「……次回は同じ失敗をしなければ良いだろ」
    「そう……ですね。原因を解明出来れば仔馬の供養になりますね」

 

     とは言え、原因はまったく不明なので母体の問題ではなく、牧草などにあったなどが考えられる。

     牧草に問題があれば、母馬も亡くなっている可能性が高いので栄養の取入れが上手くいかなかった事になる。

     この母馬は15歳と高齢でもあるので、そろそろ繁殖牝馬を引退する時期かも知れなかったが、秋子はまだ望みを捨てていない。

 

    「……今年、もう一度スティールハートを付けて駄目だったら引退させます」
    「その方が良いだろう」

 

     秋名も同意しており、もし受胎しなければ引退は確定となった。

     受胎すれば、来年以降も繁殖牝馬として活躍してもらう事になる。

     繁殖牝馬として引退したら、悠々と牧場で過ごすくらいしかないが、馬としては競馬から開放されるので幸運かもしれない。

     

 

 


     そして、仔馬の埋葬が終わってから2日後。
     秋子は2歳馬の馬名を考えるべく、色々な案を考えているがそろそろネタが無くなったようだ。

     競馬協会に提出する血統書には馬名を書く部分があるが、どうしても決まらないのだ。

     9文字までなのが少ないと、ボヤキながら馬名を考える。

     2文字以上9文字以内までと規定が決まっているのは、海外だと18文字までと使えるが、ローマ字にすると9文字になるからである。

     公序良俗に反するものや、特定の個人や団体を宣伝する馬名は使用出来ない。

     更に、過去のGⅠ馬の馬名は使用出来ないが、その馬名に別の言葉を付け足せば使用出来る。

     こうした規制があるので、馬名を決めるのはある意味大変なのであった。

 

    「一度、血統書見たらどうだ?」
    「そうします」

 

     封筒に入れられていた血統書を見ると、既に馬名が書かれていた。

     ただ、その字はミミズが這ったように汚い文字なので誰が書いたかは一目瞭然。

     ちょっと祐一を問い詰めてくる、と言って部屋から出て行く秋名。

     秋子は止めようとするが、既にこめかみに青筋を立てつつ秋名は部屋から出た後。

     平仮名で書かれた文字を見ながら、秋子はジェットボーイですか、クスッと笑って馬名を眺め続けた。

     暫くすると、秋名の叫び声が家まで届いて、それに混ざるように祐一の泣き声も混ざって飛んできた。

 

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特になし。