1レースが終わる毎に、観客の数が増加しているような錯覚が包み込んでおり、ダービーが始まる時には満員電車が簡単に想像出来る位の混雑になる。
ダービー開始までの時間はたっぷりと余っており、現在の時刻は11時を過ぎた所だが、既に競馬場の各場所ではダービーの予想を中心に変わっていく。
勿論、熱心な馬券ファンは1レースから最終までキチンと予想し、それぞれの独特の予想で馬券を購入し、一喜一憂の表情を作り出している。
だが、馬主席の方では高額馬の購入が多いとして有名な馬主が100万と桁違いの馬券を購入しては一瞬で紙くずになっていた。
既にいくら使用したかは誰が見ても不明だが、本人はいたって気にした様子ではなく、次のレースにまたも100万以上は注ぎ込んでいた。
誰が見ても分る事は唯一つで、ダービーに持ち馬が出走するから虚勢を張っているのが窺えるので、誰も笑う事が出来ないのが現状。
一般の競馬ファンが考えを練って1着を予想するのと違い、馬主の方は自分の持ち馬が出走するだけでも一杯で、表情に余裕のある馬主は少ない。
幾分か余裕そうな表情をしているのは一度だけでもダービーを制覇している馬主のみだが、やはり他のG�気鉾罎戮襪藩遒礎紊�が無い状態。
それがダービーの持つ100年以上続く歴史の重みで、賞金ではなく名誉を賭けた争いなのだから。
ダービーの直前レース――むらさき賞は善戦マンのロイスアンドロイスが勝ち、大型ターフビジョンにはダービーのパドックが映し出された。
大型のターフビジョンには殆どの観客が釘付けで、既に移動出来ない混雑状態なので、パドック付近にいる観客以外は映像を通して様子をチェック。
そして、第61回ダービーに出走する18頭の優駿が1頭ずつ紹介されていく。
馬主達はパドックの真横から各馬の様子をチェックしており、所有馬が入れ込んでいないかが一番重要な事。
「4枠8番タイフーン。馬体重は前走比−4kgで現在の人気は6番人気です」
「踏み込みは力強くて、体重もギリギリまで絞っていますが、やはり2400mの距離は長いんではないでしょうか?」
と、タイフーンの人気は5番人気から6番人気下がってしまったが、調子は良いのが窺えるので、秋子はホッと一息を吐く。
実際にタイフーンの馬体はギリギリまで余分な脂肪を剥ぎ落として、力強い踏み込みが見受けられるので、100%ではなく120%の仕上がりだろう。
究極の仕上がりと言っても過言ではなく、調教師が苦心して仕上げた馬体は芸術品の様に完成していた。
そして、最後の枠――8枠18番に入ったナリタブライアンが紹介される。
「8枠18番ナリタブライアン。現在の人気は圧倒的の1.3倍で馬体重は前走比の増減が無しとなっております」
「気合の入りも抜群ですし、殆どの問題はクリアしているので不利が起きない限り負ける方が難しいでしょう」
と、実況は絶賛しており、距離など何もかも問題が起きてもナリタブライアンの信頼は揺らがないようにも聞こえる。
競馬協会の職員が声を上げると、パドックを回っていた馬が厩務員からリードを通して止まる指示を出されてピタリと止まる。
そして、各馬に騎乗する騎手は整列後一斉に、騎乗する馬に向かっていく。
止まっている間に秋子と名雪、祐一はタイフーンの傍に近づいて、調教師と騎手、厩務員に会釈してから秋子は軽く騎手に指示を出す。
「まぁ……あまり人気がありませんけど、人気と結果は別物ですからナリタブライアンを負かすつもりでお願いしますね」
「せいぜい、ナリタブライアンの尻に噛み付いて来ますよ」
秋子が出した指示は脚質ではなく、勝利するつもりで騎乗する様にと単純なものだが、騎手が考えた作戦の方が信頼出来るので、秋子は口出しをしない。
そして、1枠1番の馬から順番に闊歩を再開し、地下道から本馬場へと18頭がターフに向かっていった。
秋子は馬主席に戻り、悩ましく吐息を吐き出して軽く目を瞑ってしまうが、ここまで来られた苦労を想い馳せているのだろうか?
あの時から10年も経過しているが、秋子のトラウマは解消された訳ではなく今もまだ蝕んでいるのだから、そろそろ決着をつけなければ先には進めない。
だからこそ、タイフーンが出走するのが確定すると秋子は自ら観戦する事を口に出してトラウマを自分の手で決着をつけるつもりなのだろう。
各馬は輪乗りしていた場所からゲート前に移動し、徐々にレース開始の時間が迫ってきた。
誘導員が頭絡にリードを付けて、レース開始時間までゲート周辺で歩き続ける。
そして、レース開始を告げる東京競馬場特有のファンファーレが演奏され、それに合わせて観客が丸めた競馬新聞を叩き手拍子でリズムを取る。
「各馬、無事にゲートに入り、今第61回日本ダービーのスタートが切られました」
出遅れた馬は1頭もおらず全馬が無事なスタートを切り、それぞれ得意の位置を取るために苛烈な奪い合いが。
ナリタブライアンは先頭から7馬身辺りに付けて、囲まれない様にやや外に向けて走っている。
タイフーンはナリタブライアンの真横に付けており、徹底的なマークで執拗にナリタブライアンを狙う。
レース展開は縦長で進んで、ペース自体はハイペースに近い状況で、逃げ馬3頭による凌ぎあいがペースを作り上げている。
第2コーナーを過ぎ向こう正面に入ると、位置取り争いはやや緩まったが、それでも速いペースには変わりない。
「ナリタブライアンはここ7番手に、真横にはタイフーンがピッタリと内側から密着しています」
縦長の展開のため先行の馬群はバラけた状態で、中団以降に位置する馬群は固まった状況なので、後方の馬は上手く捌かないとならない。
「残りの距離は1000mを切り、先頭でゴールを駆け抜けダービー馬の称号を得るのはどの馬か?!」
残り800m。
徐々に各馬との差が縮まって、レースは終盤を迎えようとしている。
ナリタブライアンは外に持ち出して、マークはここまでだ、と言わんばかりにタイフーンは内に突っ込んでいく。
残り600m。
観客の割れる様な大絶叫が東京競馬場を包み込み、最後の525mに全てを賭けるために各馬が一斉に動き出す。
ナリタブライアンは外から更に外に持ち出して、王者の走り――鬼脚を繰り出して、一気に3番手に浮上。
タイフーンも必死に追いすがるが、現在は5番手辺りで他馬と馬体を競り合わせて叩き合いで徐々に脚を伸ばしている。
だが、残り200mの時点でナリタブライアンは大外からエアダブリンとフジノマッケンオーを一瞬で抜き去り、更に加速して突き放す。
1馬身、2馬身と差がドンドンと離れてナリタブライアンは5馬身の差を付けて優勝し、第61回ダービー馬として3冠馬を目指す。
そして、タイフーンはやはり距離だったのか、それでも十分な見所を見せてギリギリ5着と掲示板には食い込んだ。
そして、芝コースの上ではナリタブライアンの関係者が表彰されており、敗者である秋子は馬主席から羨ましそうにその表彰式を眺めていた。
だが、いつまでも見ている訳も行かないのでナリタブライアンの写真撮影が行われている間に東京競馬場から、名雪と祐一を連れて去っていく。
「名雪、祐一君。必ずいつかはあそこを狙うわよ」
「うん、そうだね。このまま負けっぱなしは悔しいしね」
「いつになるかは分かりませんが、必ず優勝しましょう」
と、未だに歓声が上がっている競馬場を脇目も振らずに、3人はKanonファームに帰っていった。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。