駆ける馬　２４６話

　　　　　５月になり、春の息吹が北海道でも感じられる様になり、満開の桜が風に揺れて少しずつ花びらを幻想的に散らしていた。

　　　　　だが、最近は数多くの牧場は春が訪れる事が無く倒産――破産して牧場が潰れる事が増え、サラブレットの生産も少しずつ減少中。

　　　　　今のところKanonファームは何も問題が起こっていないが、突然不況の風に巻き込まれる可能性だってあるのだから、現在は土台を強固化している途中。

　　　　　秋子は馬が稼いできてくれた賞金を溜めては、スピード競馬に対応出来る配合が重賞戦線で結果を出しており、その手腕が現在Kanonファームを支えている。

　　　　　ガッチリと安定している訳ではないが、日高地区の中小牧場の中ではKanonファームがトップクラスになっていると言っても過言ではない。

　　　　「と、言うわけでうちの牧場はそろそろ畳もうかなと思っている」

　　　　　秋子と秋名の前に座っている男性――近隣の牧場社長が重くなった口をゆっくりと開き、リビングに重い空気を広げてしまう。

　　　　「……そうですか、決断するのに時間は掛かったんですか？」
　　　　「そうでもないなー、今なら借金ゼロで済むし、下手するとズルズルと行き過ぎる可能性あったからな」

　　　　　種付け料は高騰して、仔馬は売れないからなと男性は付け加えてから、秋子が入れたコーヒーを口に付ける。

　　　　　深刻そうな表情ではなく、スッパリと諦めている様で上手いタイミングで引き際を見誤らなかったようだ。

　　　　　既に牧場土地と数頭の繁殖牝馬と仔馬は売却したようで、牧場土地を除いてそれなりの価値で売れたと秋子に伝える。

　　　　「後残っているのは長距離血統で高齢の牝馬だから、ちょっと売れないから処分するつもりだ」
　　　　「その繁殖牝馬はどんな血統なんですか？」

　　　　　男性は父カブラヤオー母父ノーアテンション母父チャイナロックと、述べ如何にもステイヤーだと一目で分かる血統だった。

　　　　「これはステイヤーでタフネスさを備えている昔の日本在来血統に近いな」

　　　　　秋名が横から口を挟むと男性も同意して、この血統だからこそ売却が不可能だと分かる。

　　　　　ただ、と男性は更に一言付け加える事があった様で、牝馬の代を遡るとスウヰイスーに辿り着くと言う。

　　　　　スウヰイスーとは今で言うとスウィイスーと読み、クラシック牝馬２冠を初めて達成した牝馬で菊花賞２着などの実績もある名馬。

　　　　　繁殖牝馬としては成功していないので、現在では殆ど途切れている状態であり、秋子もスウヰイスーの名を聞いた途端に目を見開いてしまう。

　　　　「細々と生き残っていたんですね。あまり産駒が走らなかったから途切れたと思っていましたよ」
　　　　「で、秋ちゃん。この繁殖牝馬いる？」

　　　　　秋ちゃんと呼ばれた事は大して気にも留めず、秋子は暫し顎に人差し指を軽く添えつつ、目を瞑ってこの繁殖牝馬の価値があるかを思考させる。

　　　　　そして数分後。

　　　　　秋子は案が出たようで、ニコリと微笑みながら口をゆっくりと開く。

　　　　「丁度、今日の競馬にエアスパイラルが出走するんですよ。そのレースで掲示板に載れば購入するって事でどうでしょう？」
　　　　「うーん、まぁそれで良いか……で、出走するレースはなんだい？」

　　　　　京都で行われる洛陽ステークスですよ、と秋子は説明しつつ静かだったリビングにＴＶが点いたので、一気に賑やかになった。

　　　　　洛陽ステークスは芝１４００ｍで行われるので、マイル前後で結果を残しているエアスパイラルには格好の舞台。

　　　　　京都競馬場で出走した時の成績は１・１・１・３となっており、割と相性が良い事を示す。

　　　　　そのため現在の人気は１２頭中の６番人気で上位には一歩劣るが掲示板にならあり得ると思われている。

　　　　「と、言うわけで丁度良いと思いませんか？」

　　　　　繁殖牝馬の購入する着順は掲示板まで、即ち５着までに入れば良いのだから条件は緩いと言える。

　　　　　男性が力強く頷くと、この取引は決定となりこれから開催される洛陽ステークスを静かに見守り始めた。

　　　　　エアスパイラルは６枠８番からのスタートで、ゲートが開くと同時に珍しく絶好のスタートを切る。

　　　　　普段の脚質は基本的に差しなので、ゆっくりと中団に下げる前にやや外側から内側に向けて進路を変更。

　　　　　なので、騎手は手綱を緩めてスーッと先頭を他馬に譲り、エアスパイラルは５～６番手辺りに位置する。

　　　　　半分辺りを過ぎた時点のタイムは４２秒と非常にスローペースでレースは進んでおり、先行勢に最もチャンスが生まれている。

　　　　　直線に入り先行勢が前半の勢いを維持したまま動き、中団から最後方にかけて、少しずつ差を詰めようとしているが前はキッチリと脚を残しているだろう。

　　　　　前の方に位置していた６頭の争いで、既にレースは決着すると言っても過言ではなく、どの馬も脚を余さない様に仕掛ける場所を窺っている。

　　　　　残り２００ｍ。

　　　　　先に抜け出したのはエアスパイラルで首ほどの差でトップに立ち、残り５頭よりも脚が残っていないと騎手が判断したのかもしれない。

　　　　　徐々に残り５頭が仕掛け、エアスパイラルへの圧力が高まって少しずつ他馬から抜かれてしまって行く。

　　　　　そして、ゴールしたものエアスパイラルは首の上げ下げの差で何とか５着を確保していたので、秋子は約束通りに繁殖牝馬の購入となった。

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　　　　　この話で出た簡潔競馬用語

　　　　　注１：カブラヤオー……逃げ馬としては春のクラシック２冠を逃げ切っているが、実際は他馬を極度に怖がるからこの作戦しかなかった。
　　　　　注２：ノーアテンション……スーパークリークの父として有名。
　　　　　注３：チャイナロック……タケシバオーやハイセイコーの父として有名。
　　　　　注４：スウヰイスー……読み方はスウィイスーで、当時の電話音質の聞き間違いで登録された経緯が。