3月になり、徐々に春らしい気温が日高地区に到来し、繁殖牝馬が新たな生命――仔馬を産む時期が何処の牧場にもやって来た。

     Kanonファームも出産に備えるために、厩舎内で寝泊りしつつ様子を窺うが1日経っても産まれない時もあり、空振りは出来るだけ避けたいだろう。

     今年の出産予定は5頭と、今までよりも扱う頭数が多いので、人的余裕が無いKanonファームでは非常に心労が残ってしまう。

     スタッフは2名いるが、出産に立ち会ったのは2人とも去年が初めてなので、秋子、秋名、名雪と祐一には一朝一夕では収まらない差があり敵わない事実が。

     数年近くは慣れていないと、なかなか出産時期の苦労は身に付かないだろう。

 

    「後はファントムに種付けしたメジロデュレン産駆だけですね」
    「他の4頭は無事に産まれたし、最後の1頭もちゃんと産まれると良いがな」

 

     秋名は厩舎の一角にあるこじんまりとした休憩室で、秋子が淹れたコーヒーを口に付けて待機中。

     休憩室と言えるかは分からないが、長椅子とテーブル、小型ガスコンロに繁殖牝馬の馬房内を映している監視カメラがTVに繋がれている。

     その映像はファントムが映し出されており、何事も無いようにズッとその場に佇んでいた。

 

    「……今日は外れかもしれないな」
    「そうですね……兆候がまったく見られませんし」

 

     とは言え、この場で朝まで仮眠を取りつつ待機しなくてはならないので、秋子はちょっとだけ、顔を顰めてしまっていた。

     秋名も同じような表情になっているが、この事に関しては余り気にしていないようだ。

     ふと、何かを思ったのか秋子は秋名の顔をしっかりと見据えながら、ゆっくりと口を開く。

 

    「そろそろ、ファントムを売却しようかと思っているんですが、どう思います?」
    「唐突だな……既に4頭の後継牝馬が居るし確かに、新たな血統を取り入れる為には良いと思うぞ」

 

     秋名が言う4頭の中にはホワイトウインドとイチゴサンデーも含まれており、更に細かく言うと今年産まれたサイレントアサシンの仔馬も牝馬なので5頭。

     これだけの牝馬がKanonファームに確実に戻ってくるとは限らないが、他の繁殖牝馬の事も考えると牧場が手狭になってしまう。

 

    「うーん……うちのかまど馬を売りに出すのは勿体無いが、血筋に拘り過ぎると弊害が出るからな」

 

     かまど馬――牧場にとっては走る産駒を産む牝馬を売る事は簡単に頷けない事だが、秋子と秋名は柔軟な思考を持っているのであっさりと決定。

 

    「じゃあ、10月に行われる繁殖牝馬セールにファントムを申し込んでおきますね」

 

     秋名は返事の代わりに小さく頷いてから、再び監視カメラの映像をジッと 眺めていた。

     変わった様子は殆ど見られないので、秋名は深く溜息を吐いてから、長椅子の上に置かれている毛布をむしり掴み、そのまま自身に掛けて横になる。

     ひらひら、と秋名は手を大きく秋子に向かって振りつつ、意識を少しずつ閉ざして眠ってしまう。

     結局、ファントムの仔馬は本日中に産まれる事も無く空振りで終わってしまった。

 

 

     さて、今週はストームブレイカーが中山記念に出走する。

     前走の京都金杯で初重賞制覇を果たし、今回で2つ目の重賞制覇を狙っているのは確実。

     出走馬のレベルはG�兇箸聾世─⊂�粒な構成となっており重賞勝ち馬は居るが殆どが“過去”に勝利した実績を持つ馬が多く、新興勢力の馬は少ない。

     主に今年の京都金杯を制したストームブレイカーと前走1600万下で圧勝したサクラチトセオーが台頭と言ったところ。

     その他にも東京新聞杯で2着になったケントニーオーが居るくらいで、前走で重賞を制したのはストームブレイカーのみ。

     なので、オッズは3.2倍の1番人気に押されており、安定した成績で前走の勢いがあるから、この人気も納得出来る。

 

    「ここの結果が良く無いと、目標の安田記念は厳しいですね」
    「そうだな……せめて、掲示板には載ってもらわないとな」

 

     現状では確実な安田記念に出走出来る本賞金のポーダーラインは不明で、京都金杯と天皇賞2着の本賞金が合わさってもギリギリかも知れない。

     なので、秋名の言う掲示板に載って欲しいのを本音を説くと、2着までには入って欲しいと言う所だろう。

     そう言っている間にレースは始まっており、ストームブレイカーはいつもの指定席――中団からの末脚に賭けている。

     サクラチトセオーがマークするようにストームブレイカーのやや外に位置し、半馬身程の差でビッチリと併せている。

     レースの展開は平均ペースで流れており、どの位置に居る馬も十分なチャンスを持っていると言う事。

     そして、レースは終盤を迎えて残りは中山競馬場名物の坂が直線で待ち構えている。

     スッ、と各馬が騎手の鞭と手綱に反応し勢い良く伸びる馬も居れば、まったく反応せずに伸びあぐねる馬もいる。

     ストームブレイカーは前者と横でマークをしていたサクラチトセオーも、それに近い勢いで上がっていく。

     坂を上ってもその勢いは衰えず、競り合いは更に加速させ他馬は既に後方に置き去りになっている。

     そして、先頭でゴールしたのはサクラチトセオーでストームブレイカーは半馬身差の2着に食い込んだ。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     注1:サクラチトセオー……実際の前走は当時に行われていた900万下を勝利しての出走。
     注2:ケントニーオー……ここに来るまでは掲示板を外す事が無く、堅実な馬だった。