1993年――歴史の変換期から94年は激動期と呼べるくらい、“競馬”の動きは急速に変化しようとしていた。

     主にナリタブライアンやヒシアマゾンの血統は今まで日本に輸入されて来た種牡馬と違い、元がアメリカで活躍した父を持つことであった。

     欧州種牡馬優先だったのは90年に入った頃までで、既に欧州の重厚な血統よりもアメリカの軽快さを持つ血統が好まれる様に変化している。

     もちろん、どちらも一長一短があるので優位性は選べないが、お互いの特徴が複雑に絡み合って馬の性能が飛躍的に伸びたのはこのような事実があるからだ。

     昔から傍系の血統がいくつも何世代も交じり合って、現代競馬に繋がっているのだから、今後も同じような出来事が起こりえる可能性がある。

     そして、今年産駆がデビューするサンデーサイレンスはアメリカに名を残した名馬で傍系に属する血統――ヘイローを父に持つ。

     現状の評価は気性が激しい産駆が多く調教師が苦労している事が窺える状態だが、それは些細な問題として調教師の評価がガラリと変わる馬が多い。

     ノーザンテーストが繁栄している日本競馬を一気に栗色から、サンデーサイレンスの毛色――黒で勢力図を塗り替える可能性もあり得るだろう。

     いくら産駆デビュー前の種牡馬を大きく取り上げても、どれだけ活躍かは競馬の神のみが知るところ。

     さて、Kanonファームのサンデーサイレンスの血を引く生産馬は既に馬名――イチゴサンデーと申請が通っている。

     馬名の名付け親は言うまでも無くイチゴ好きな名雪が付けたものだが、誰も異論は無かったようで、あっさりとOKサインが通った経緯が。

     馬名に反して非常に気性が勝っている牝馬なので、誰もが馬名と実態を知ると珍名馬として認識されてしまうだろう。

 

    「評価が良いし、実力に反して馬名が変わっていたら人気が出るよ」
    「そんな単純なもんかしら?」

 

     ズズッ、と音を立ててオレンジ色の液体が注がれた透明のコップを口に付けつつ、名雪の親友である香里は疑問を浮かべ首を小さく傾げる。

     そんなもんだよ、と名雪が説明すると香里はまだ納得していないようだが、馬名に拘りが無い香里にとっては頷くしかなかった。

 

    「実際に珍名馬で活躍したらファンに愛される馬が多いしね」
    「例えば?」
    「うーん、ノアノハコブネとかラグビボールとか」
    「……古すぎて知らないわよ」
    「そんなに古くないよ。1985年と1986年に走っていた馬だよ?」

 

     その時の年齢はいくつよ、と香里は冷静に突っ込んだが、名雪の返答も実に冷静であっさりと返答してしまう。

     その時は6歳と7歳だったけど? と別に何て事も無さそうに答える名雪だが、香里の表情が鼻白んでしまう。

     香里は自分の目の前に座っている同じ年代の少女――名雪のやや大人びて整った顔をまじまじと見てしまった。

     如何に名雪が自分の住んでいる世界が違うと香里は実感したようだが、名雪は競馬に関する事以外は一般人と何も変わりない。

     名雪は香里の視線に気付いた様だが、気にした様子を見せずに壁に掛かっている時計に意識を向けて口を開く。

 

    「……? 何か不穏な事考えていたみたいだけど、それは措いといてTV貸してくれない?」

 

     ここはKanonファームではなく、美坂家なので名雪は香里に断りを入れる。

     香里からのOKサインが出ると、名雪はすぐさま競馬中継が行われているチャンネルに合わせる。

 

    「何が出走するの?」
    「ストームブレイカーが京都金杯に出走するからチェックしておかないと」

 

     既に名雪の視線はTVに向かっており、香里は呆れた表情を浮かべるが何度も見ている光景で、口を挟む事が出来ない程名雪の表情は真剣。

     現在ストームブレイカーの人気は圧倒的ではないが、GⅠ2着の実績が買われて1番人気に押されていた。

     主なライバルとなる馬は前走の鳴尾記念で2着に入ったマーベラスクラウン。

 

    「勝てそうなの?」
    「うーん、体調次第だけど良さそうには感じるね」

 

     馬体重は冬なのであまり絞れていないが、下腹はキッチリと引き締まっておりベストに近い状態なのが窺える。

     短期休養で体調が戻った様で秋子の判断は非常に正しかったと言えるだろう。

 

 

     そして、レースが開始する。

     ストームブレイカーは7枠13番からのスタートで、やや立ち遅れた形でゲートから出た。

     本日の京都は初開催だが、小降りの雪で芝コースはしっとりと湿っており、稍重と電光掲示板に表示されている。

     差し馬であるストームブレイカーには厳しい状況だが実力は抜けている方なので、下手な走りをしない限り負ける可能性は低い。

     京都金杯は1984年から2000mだったのがマイルに変更され、中山金杯が当時から変わらない2000mで開催されている。

     そして、あっという間に直線に入り、TVから観客の罵声や怒声などが沸いて響いて来た。

 

    「この調子なら勝てるんじゃない!?」

 

     香里はTVに釘付け状態になっており、若干興奮した様子で名雪に話しかけるが、名雪は至って冷静でジッとTVの画面を見ている。

     現在、ストームブレイカーは残り100mの時点で2番手を走って、逃げ切りを図るエイシンテネシーを徐々に追い詰めようとしていた。

     外からマーベラスクラウンも追い上げているが、勢いは僅かにストームブレイカーの方が有利。

     残り50m。

     スッ、とエイシンテネシーと馬体を合わせたストームブレイカーが伸びて、最後にマーベラスクラウンの進撃を首差抑えて勝利した。

     その瞬間、香里がギュッと名雪に抱きついてきて、香里のウェーブヘアからシャンプーの匂いがふわりと漂い、名雪の鼻腔を擽ってしまう。

 

 

     戻る      

 

     この話で出た簡潔競馬用語

 

     注1:ラグビボール……仔馬の頃に牧場でラグビボールが跳ねる様に 飛び跳ねていたのが馬名の由来。
     注2;エイシンテネシー……未勝利勝ちの時にレコードで勝利した実績あり。
     注3:マーベラスクラウン……この時点ではセン馬でOPクラスに在籍中。