4月になり、Kanonファームを含めた周辺の牧場では新たな生命の誕生――競走馬が産まれる瞬間に一喜一憂。
死産や逆子の為の仔馬が死亡してしまう事や、逆に繁殖牝馬が仔馬を産んだ同時に死亡したり、初乳を与えるのを嫌がる牝馬もいる。
特に最後は初出産の場合が多く、ウインドバレーの母馬――フラワーロックも与えなかったので名雪と祐一が2時間おきにミルクを与えていた。
この事が影響してウインドバレーは騎手の言う事を良く聞いて、走ったとも言われるが実際にこの事実が関係しているかは不明。
ただ、少なくとも人を信用して走る性格なのは名雪と祐一が手塩を掛けて育てた事が決定的な事項だろう。
閑話休題。
さて、Kanonファームで現在産まれた産駒は2頭。
エレメントアロー×スキャン。
ファントム×アレミロード。
エレメントアローの仔は初産駒なので、エレメントアローが育児放棄をしないかが問題だったが現状では子煩悩と言える程べったりしている。
後の2頭――フラワーロックとルリイロノホウセキの産駒はまだ産まれておらず、気を持たせている。
この2頭の仔馬は牡馬で走れば今後に繋がるが、走らなければ家畜商に持って行かれる運命なのは確実。
なので、キチンと馴致を行い育成牧場に送り出すまでがKanonファームで産まれた馬に行える最大限の愛情だろう。
生産牧場が行える事はただ馬を生産して1歳までに馴致を済ませ、育成牧場に送り出して無事に戻ってくる事をレースを見ながら祈るのみ。
「んー、今年の0歳馬はどうなるかな?」
「どうなるかしら? せめてOPクラスまで行ってくれるのが居ると良いわね」
名雪は放牧地の木製柵の上に腰を掛けて、母馬の傍にいる仔馬を見やるが、それ以外の言葉は出てこない。
名雪の言葉に秋子は自身の疑問を口にしつつ、願望を織り交ぜて答える。
実際に走るかは誰が見てもなかなか分からないので、競馬世界に踏み込んでから14年と約3ヶ月の名雪には無理がある。
勿論、長年牧場で作業を行っている秋子でも絶対に走るかどうかは的中出来ないし、馬と話せない限り絶対な相馬眼は得ることは出来ない。
「まぁ、わたし達が基礎的な事を教えて育成牧場に送り出せば良いだけで、その後は向こうに任させれば良いわ」
秋子はこの事を話し終え、ポンと名雪の肩を叩きつつ、任せるわよとたった一言だけを真髄に伝える。
「うん、任されたよ」
名雪の言葉は非常に頼もしいもので一点の曇りも無く言い切れるのは、自分が秋子から信用されているのが嬉しいからだろう。
ニコリと笑みを作った表情は秋子に似た表情であり、如何に秋子の遺伝子が受け継がれているかが分かる。
気合を入れるために名雪は少しずつ女性らしく丸みを帯びてきた自身の胸の前に握り拳の両手を出す。
が、座っている柵から落ちそうになるが名雪は慌てずに柵に手を付けて揺れる身体を支え同じ様に座りなおした。
「ちょっと、聞きたいんだけど良いかしら?」
「んー? 何が聞きたいの?」
名雪はクルリと柵に脚を乗せたまま、鉄棒にぶら下がる要領の格好になって秋子の質問を聞く。
逆さ向きになっているのでスルスルとコートとパーカーの裾が下がっていくが、お互いに気にしていないようだ。
「祐一君の事をどう思っているのか、ちょっと気になったから質問しただけよ」
何となく名雪は秋子の意図に気付いたのか、あー、と神妙な表情で間延びした声を上げる。
「うーん……恋愛感情はまったくないね。長く一緒に居すぎた所為か出来が悪い弟な感じがする」
よっ、と声を挙げてから名雪は両手を放牧地に付けてから、柵から脚を勢い良く抜き出して軽く身体を半回転してから立ち上がる。
パンパンと手に付いた砂埃を払い、乱れた長く艶のある髪を手櫛で整えつつ、秋子の方に顔を向ける。
「と、言う訳で祐一の事は従兄弟としてしか見られないなー」
「嫌いではないのね?」
「うん、嫌いではないけど従兄弟として好きなだけかな」
と、名雪の祐一に対する評価は悪くも無く、良くも無い中間だった。
なるほど、と秋子は呟きつつ放牧地で母馬と仔馬が寄り添っているのを視線に捉える。
空に浮かぶ太陽は徐々に赤くなり、放牧地の広大な大地が白が混じった緑色からオレンジ色に変わっていく。
残雪が夕日に反射し、幻想的な色合いを醸し出している。
「そろそろ福島牝馬Sの時間じゃない?」
「じゃあ戻ったほうが良いわね」
スタスタ、と2人は夕日の残光を浴びながら家に戻っていった。
サイレントアサシンが出走する福島牝馬Sを見るために。
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この話で出た簡潔競馬用語
注1:ドクターデヴィアス……アホヌーラの血を引くイギリスダービー馬。