相沢家のトレーニングルームには、有希が1人で佐祐理から許可を得てから木馬に騎乗しつつ、騎乗スタイルを先ほどまで確認していた。
だが、今は木馬を操っていた証拠となる音――木馬の馬体と首部分から軋む音がトレーニングルームから響いていない。
それもその筈。
現在、有希はトレーニングルームに置かれている椅子に身を投げ出しながら座り、顔が隠れる様にタオルを被っている状況。
その姿は誰にも見られたくないからか、声を上げずに泣いており、騎手の平均的な身長である有希の身体が更に小さく見えてしまう。
その小さな肩を震わしているのは、自身の実力では重賞制覇が厳しい事を起因しており、現在の騎乗を支えている腕前が今では精一杯なのだから。
だが、その沈黙を打ち破る様にトレーニングルームのドアが小さく開かれて、誰かがこっそりと顔を覗かせる。
んしょ、と可愛らしい声を出してドアを開けたのは、小さな女の子でトレーニングルームに似つかわしくない服装。
その服装は裾にフリルが装飾された白のワンピースに、黒のガーディガンを羽織っているのでお嬢様の様な雰囲気を醸し出している。
絹の様にきめ細かい栗色の髪が肩下辺りまで伸ばしており、チェック模様の緑色のリボンがアクセントとなっている。
そして、クリクリとした子供特有の瞳が可愛らしさを引き出しているが、当の本人はまだその魅力は気付いていない事だろう。
トコトコ、と少女はお目当ての人物の元へ向かって歩いて行き、有希が着ているスポーツウェアの裾を軽く引っ張る。
有希はその感触に気付いたのか、泣いていた事を隠す為にタオルで目を拭うのだが、赤くなった目は隠しようがなかった。
「有希お姉ちゃんー」
「祐ちゃん、久しぶり」
有希を慕う少女の名前は相沢祐。
名前から分かる通り、彼女の父と母は祐一と佐祐理で2人にとっては可愛い1人娘。
逆に美浦トレセンで働く競馬関係者は老人が多く、佐祐理も時々トレセンに祐を連れて行く事があるので、そこでは孫の様に可愛がってもらっていた。
つまり、アイドルともマスコットとも言える人気が祐にはある。
有希に抱きついた祐は子供らしく喜色満面の表情を浮かべ、期待に満ちた顔で有希の顔を見上げる。
「はいはい、いつもの様に撫でてあげるよ」
「お願いしますー」
有希は祐を抱え上げてから膝の上に乗せ、祐がパタパタと膝の上で足を揺らす姿は、まるで犬が尻尾を振っている様にみえる。
繊細に尚且つ、強弱を付けた有希の指が祐の髪を撫でると、撫でられている本人は気持ちよさそうに目を細めてしまう。
まるで姉妹――有希からしてみれば、祐が生まれた時から現在進行形で可愛がっているので血の繋がりは無くても妹と認識していた。
「んー、今日の有希お姉ちゃんの撫で方ちょっと変」
「……そんな事は無いと思うけどなぁ」
有希は先程まで泣いていた事をばれない様に微笑みつつ、勘の良い祐に対して舌を巻きながら有希は撫で続けるしかなかった。
暫く、有希はこの事を誤魔化す為に、祐が満足する様に緩やかに撫で続けると、やはり子供というだけあって、すっかりと忘れてしまったようだ。
「所で何か用があったの?」
「あ、そうだ。お母さんが有希お姉ちゃんを呼んで来てって言ってたんだ」
「そっか、ありがと」
有希は祐にお礼を言いながら、膝から降ろして立ち上がる。
撫でてもらう事が終わったので、祐は残念そうに有希の顔を見上げるが、有希は視線に気付いたのか手を差し出す。
その差し出された手と有希の顔を交互に眺めてから、祐はギュッと両手で女性らしくないゴツゴツとした手を握り、嬉しそうな表情を浮かべた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした−」
テーブルの上には体重制限が厳しい騎手――45kg前後を保つ必要がある為、少量ながらもカロリーを計算された料理が置かれていた。
その料理はすっかりと平らげられて、お皿にソースがちょこちょこと残っている位。
佐祐理も自身が作った料理を多く口に摘む事は出来ないが、楽しそうに有希と一緒に祐の食べっぷりを眺めていた。
「佐祐理は騎手として成功しているし料理の腕前も良いし、本当に才色兼備だよね」
有希はビールが注がれたジャッキーを手に取り、チビチビと飲みながら呟く。
「そんな事無いよ。まだまだ至らない所があるし、私だって最近は重賞制覇していないよ」
「それでも佐祐理の勝利数は私より多いから羨ましいよ。私の腕だとそろそろ厳しいと思っているから」
「むー、有希お姉ちゃんは頑張っているもん」
自嘲気味に言葉を呟いた有希を咎めたのは、佐祐理ではなく祐の声は有希を励ますには十分だったようだ。
ありがと、と呟いた有希は手を伸ばし、ゆっくりと祐の頭を撫でて佐祐理はその光景を微笑ましく眺めていた。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。