仕事が終わると厩舎地区に住居を構えている調教師と寮に住まう厩務員、独身寮に住む騎手などが家に戻っていく。

     すぐに厩舎に向かえる様な構造になっているのは、馬が優先される為という単純な理由。

     一応、騎手は独身寮から出て邸宅を構える事が出来るので、調教師と厩務員に比べるとやや緩い条件。

 

    「相変わらず、佐祐理の家は良いね。まぁ、祐ちゃんも居るし独身寮では暮らせないからね」
    「ありがと。有希も買える位は余裕あるんじゃないの?」
    「うーん……それだともう少し年間勝利数を上げないと無理だと思う」

 

     はぁ、と嘆息を吐きながら有希は洋風の2階建てでガレージを持つ、中流階級の家を眺める。

     ここは都会からやや離れている場所の為、喧噪はそれ程酷くもなく、過ごしやすい場所。

     相沢家が住む家はドラマに出てきそうな白い家といえば想像に浮かびやすい形で、庭には犬こそ居ないが十分な広さを兼ねている。

     派手な外見ではなく周りの家と調和している形なので、すんなりと受け入れられており、先ほどには近所の人から挨拶をされていた。

     2人揃って騎手として成功している分類なので、これくらいはポンと買えてしまう資産は持っているのだから。

     とはいえ、祐一は地方騎手なので佐祐理に比べると取得賞金の差は大きく水を開けられているのが実情。

     それでも5年前に佐祐理と結婚した後からは、守る者が出来たという単純な理由で成績が一気に上がっている。

     今や地方通算1000勝直前で止まっているが、中央でも50勝近くしており2004年には名雪の生産馬で中央重賞を初制覇していた。

     閑話休題。

     相沢家の家には祐一と佐祐理が今まで勝利して得た重賞トロフィーや表彰が飾られている。

     そして、騎手の家らしく1室は丸々トレーニングルームとなっており、騎乗スタイルを確認する為の木馬と大型の姿見が。

 

    「後で貸して貰って良い?」

 

     有希は見慣れているのも関わらず、キラキラと目を輝かせて幼さが混じった様な表情を佐祐理に向ける。

 

    「勿論、使っても良いよ。毎回来る度に使っているだから、許可は取らなくても良いのに」
    「いやー、そこらはちゃんとしておかないと駄目でしょ」

 

     有希が所属している厩舎は調教師がしっかりと礼儀を教えているので、きっちりとその辺は有希も受け継いでいた。

     佐祐理は苦笑いを洩らしながらも、あっさりと許可を出す辺り、この2人は親友として仲が良いのが分かる。

 

    「私も欲しいんだけど、置き場所がね」
    「広い場所が無いと置き場所に困るからね。その点からすると独身寮に居た方が木馬はサッと使えるからそっちの方が良かったんじゃない?」
    「早い内に予約が埋まるし、数が少ないから練習出来る回数少ないのを分かって言っているでしょ」
    「あ、分かった?」

 

     と、佐祐理は悪戯っぽくチラリと小さく赤い可愛らしい舌を出すのであった。

 

 

     そして、有希は木馬を借りて姿見で騎乗スタイルを確認しながら木馬の首を押しつつ、鞭を振るう。

     レースをしているかの様な真剣さを帯びた表情は、先ほどに見せたコロコロと変わる表情ではない。

     佐祐理から借りたスポーツウェアに着替えて鞭を振るい、四肢を濡らすほど汗を流す姿は振り向きそうになるほど魅力的なもの。

     リズム良く息を吐き出す有希の呼吸音と木馬の首を押して軋む音が、トレーニングルームに響く。

 

    「……ふう、私も今年で9年目か。そろそろ重賞を勝たないと危ないだろうなぁ」

 

     軽く汗を拭いつつ、有希は自分の不安を口に出すが、その声を聞いた者はこの場には誰も居ない。

     普段の有希を知っている者からすれば、この様な台詞を吐き出すほど追い詰められているのが分かってしまう。

     実際に有希の腕前は佐祐理の様に豪腕で馬を動かせる訳でも無く、地方競馬の沢渡真琴の様に臆せずに馬群突破を出来る技術を持ち合わせている訳でも無い。

     有希の技術と腕前は2人に比べると劣っているのだから、足掻かなければこのままでは騎乗依頼が減っていくのは明白。

     それだけ現在の日本競馬は生産されている馬の数が減少しているのもあって、成績が低い騎手には非常に厳しい状況なのだから。

 

    「もっとどん欲に騎乗しないと駄目なのかな? はぁ……辞めたくないなぁ」

 

     有希は佐祐理が置いた真新しく洗剤の匂いがするタオルを頭に被ってから、近くにある椅子にもたれ掛かった。

     その姿は普段の様な明るさが感じられず、声を上げずに小さく肩を振るわすのみだった。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特になし。