競馬関係者の朝は早い。
一に馬、二に馬を優先させて、馬の行動時間に人が合わせるのだから、生半可の覚悟では勤まらない。
青と赤、白、黄色が混じり合い、薄明と呼べる位の明るい空と幾多の様々な形をした雲が浮かぶ。
その為、冬の夜明けらしく風切り音が身を縮こまらせる程、冷たく痛い風が吹き付けている。
そんな中で、ここ美浦トレーニングセンター――通称、美浦トレセンに所属する各陣営の馬が厩務員に曳かれて闊歩していく。
騎手に所属厩舎で働く者の家族などを含め、およそ5000人がここに暮らしており、時間になると一斉に働く姿は実に壮観な風景である。
それだけの人数が住んでいるので、村社会の様にあっという間に噂が広がってしまう。
そのため各騎手は自分を調教師や厩務員に売り込む為に、どこもかしこも朝の挨拶が聞こえてくる。
調教コース前には騎手や調教助手が事前に予定を組まれていた通りに騎乗したり、直前に調教師が騎手に依頼をしたりして乗る者も。
「おはようございます」
「おう、佐祐理ちゃん。今日も頼むぞ」
佐祐理は厩務員に足を支えられて騎乗すると軽く鬣を撫でながら本日の調教について調教師から話を聞き始める。
「この馬の調子は暫くレースに使う予定は無いが、身体を緩めずに厩舎内で置いておくので、ピッチリと併せて欲しい」
「了解です」
まだ本格的にタイムを計る必要が無いので、他の調教助手が騎乗する古馬と共にWコースに向かう。
佐祐理が騎乗する馬は4歳500万下クラスで、調教パートナーの馬――4歳1600下クラスと比べると劣る所がある。
それでも、最近は身体がしっかりとした肉付きになっており、本格化が近いと言われている存在。
「うん、ホワイトファントムの仔らしく3走前に乗った時よりも、歩き方が力強くなっていますね」
「さすがに分かりますか……現役時代のホワイトファントムの乗り心地はどうだったんですか?」
「私が乗った頃は荒削りな時でしたし、菊花賞以降は乗っていないので分かりませんが、背中がぶれない走りだったと記憶していますね」
佐祐理は菊花賞以降、ホワイトファントムに騎乗する事無く初めて騎乗したGⅠ馬の背中をしっかりと味わったからこそ、今に続いているのだから。
そして、調教コースに入ると徐々に馬体を暖めさせるためにゆっくりと並足で走らせていく。
お互いに馬の動きが良くなった所でしっかりと馬体を併せて、佐祐理と調教助手は調教師の提示通りにフィニッシュさせる。
こうして、1頭の調教が終わると佐祐理は別の陣営からも声を掛けられて、テキパキと陣営によっては違う調教内容をこなしていった。
そして、突然舞い込んだ代理調教も終えた時には、すでに空は朝日が完全に覗かせている。
即ち、今日の調教仕事と厩舎仕事は終わった事を示しており、現在の佐祐理は手持ち沙汰な状況。
そこで同じように調教を終えた女性騎手が手を振りながら佐祐理に近づいてきた。
「やっほー、佐祐理」
「お疲れ。有希」
佐祐理に声を掛けた女性騎手は音薙有希――佐祐理の後輩で、屈託のない笑顔と前髪の一部を三つ編みにして結んでいるのが特徴。
2人は女性騎手として大きく成績に差があるのだが、地方を含めてお互いに100勝を突破している数少ない女性騎手。
因みに地方では沢渡真琴とベテラン騎手が100勝を突破しており、如何に日本競馬では女性騎手が活躍し難いかが分かる。
そのため、2人の関係は親友兼ライバルと非常に分かりやすいもので、更に祐一が好きだったという関係も。
「今日の仕事は全部終わったみたいだし、佐祐理はどうするの?」
「私は祐を迎えに行くまでまだ時間があるから、手持ち沙汰な状態と言えるかな」
「祐ちゃんは元気?」
「うん。毎日が騒がしい日々だけど、元気で困る位」
佐祐理の表情は屈託のない笑顔が浮かんでおり、それだけ今の日常が楽しいというのが伺える。
「楽しそうで良いなー……ねえ、佐祐理。祐ちゃん貰って良い?」
「あはは、それに関しては有希でもお断りだよ」
未だに結婚していない有希からしてみれば、祐一と佐祐理の娘である祐は自分の子供の様に可愛がっていた。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。