サンユベールが桜花賞を勝利したが、祝祭を直ぐに行う訳にもいかない程、春の牧場は忙しい。

     繁殖牝馬の出産に、種付け準備に、普段通りの牧場業務もあるが、Kanonファームは新たに購入した牧場が稼働中。

     そのため、新たな放牧地を見学しに来る他地区の牧場経営者などの訪問に対する対応も。

     その対応に追われているのが、主にKanonファームの社長である名雪であり、手が空いていない時には従業員も行う。

     今年デビュー予定の2歳馬も居るので調教を行い、入厩までに身体をある程度作らないと行けない。

     そのため名雪が取った手段は騎乗停止中の佐祐理を親戚のコネとして、わざわざ呼び寄せて2歳馬の調教を任せている。

     本来なら騎乗停止中は厩舎で各馬に調教を付ける為に営業する場合も多いが、騎手という職業柄で、こういう時は旅行で気分転換する騎手も。

     佐祐理の場合は名雪から誘われたのもあるが、旅行兼調教と兼ねていたので、快く引き受けていた。

     流石に夫婦揃って騎乗停止中ではないので、娘の祐は佐祐理と共にKanonファームに来ている。

     牧場という特殊な環境なため、スタッフには可愛がられており、ある意味マスコットの様な扱い。

     騎手である祐一と佐祐理の子供なだけあって、普段から見慣れている厩舎の馬ではなく、人を騎乗させる事を覚えていない1歳馬にも物怖じせず近づく。

     傍には祐にとっては叔父にあたる一弥が付き添っているが、それでも手慣れたもので、警戒している1歳馬に近づき優しく額を撫でる。

     流石に体格差がありすぎるので、一弥に抱っこしてもらっている状況。

 

    「一弥おじさん。この馬があのウォーエンブレムの産駒なんだよね?」
    「……おじさん。う、うん、この馬がウォーエンブレムの仔だよ」

 

     一弥はおじさんといわれた事にガッカリと肩を落としつつも、祐の質問を答える。

     ある意味、競馬関係者である祐にしてみれば当たり前の事を聞いたのだが、一弥にとっては想定外だったようだ。

     5歳くらいの年齢なら、可愛いなどの感情が先に出るはずだが、血統の事を聞くということは間違い無く競馬関係の道に進むだろう。

 

    「祐ちゃんは競馬が好きなんだよね?」
    「うん! 馬が走っている所が好きだけど、血統の方にロマンを感じるよ」

 

     このままいくと最後まで語りそうな勢いだったので、一弥は抱っこしていた祐を下ろすと、別の話題に切り替える為に、話を逸らす方向に向ける。

     一弥自身も思い当たる所があるのか、こうした共通点を持つ者同士だと、中々話が終わらなくなり、最後は喧嘩腰になりやすいのだから。

 

    「……そうだ。そろそろ、今年最も期待されている2歳馬の調教が行われる頃だから見に行く?」
    「期待の2歳馬というと……トロピカルサンデーの下だよね? それなら見てみたい!」

 

     やはりというべきか、美浦トレーニングセンターでも調教を見ているので、期待の2歳馬が見られるのとなれば食いつくのも当然だった。

     同じ敷地内にあるとはいえ子供には少し距離があるが、間近で調教が見られるとあって、祐は一弥の手を引っ張って調教コースに向かおうとする。

 

 

     そこは距離600mの坂路コースであり、高低差は3mだったが僅かに改修されており、高低差が2mも増加している。

     助走区間が短いので、各馬は一気に上がる事を強いられるのが特徴で馬体に負担を与える事が可能になった。

     祐と一弥は坂路コースから僅か離れた場所に設置されている物見台の上に上がって、駆け上がってくる馬の様子を眺めている。

     その中で最も期待されている2歳馬――キングカメハメハ×イチゴサンデーの番となり、佐祐理を背にして駆け始める。

     調教パートナーとして引退した重賞馬が宛がわれており、600mと短い距離ながら、迫力ある走りで馬体を併せていく。

 

    「……うん。これくらいの坂に関しては弱い所が無いかな。随分と綺麗な      走りをするけど、併せたらどうかな?」

 

     佐祐理は今の所は綺麗な走りをする馬だと評価を下すが、調教パートナーの横に取り付いて、軽く肩に向かって鞭を振るう。

     すると、1歩完を深く踏み込んで僅かながら馬体が沈み込む様な感覚で、あっという間に差し切ってしまう。

     同じ様に坂路コースで3回の調教をし終えると、佐祐理の表情は非常に満足感が現われていた。

     名雪に報告するのは興奮気味な喋りで、普段とは似つかわしくないほど。

 

    「これは確実にトロピカルサンデーよりも上になるね! デビュー前の時点であの走りが出来るなら、ダービーは狙えるというのも納得だね!」

 

     チラリと佐祐理は名雪の顔を見て、口には出さないが新馬戦にも乗りたいという意思が見受けられた。

 

    「残念ながら既に祐一との約束があるのでな。佐祐理の頼みでもこればかりは無理だな」
    「うーん……そっか、それなら仕方ないね。2人の約束なら尚更だし……所で馬名は決まっているの?」

 

     名雪が決定している馬名の事を口に紡ごうとした時に一陣の風が吹き、その言葉は風の中に掻き消えていった。

 

    「――だ。この馬で母の生産馬を超えてみせる」

 

     その言葉には誰にも入り込めない程の強靱な意志が込められており、それを共有出来るのは祐一だけで、佐祐理は羨ましそうな表情だった。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特に無し。