Kanonファームにある厩舎の一角。

     天日干しで乾かした牧草と寝藁に独特な草のニオイが鼻に漂ってくる程、厩舎内はニオイが充満している。

     僅かな日差しが天窓から厩舎内を薄く照らしている為、電球代わりとして薄暗い厩舎内でもそれなりの明るさを保つ。

     だが、それだけ天気が良いにも関わらず、1頭の馬だけが馬房内に佇んでおり、他の馬は放牧地を駆けていたりしている最中。

     その理由は今年デビュー予定だった2歳馬が骨折した為、ギプスを脚に巻かれたまま。

     運が良く骨折の度合いが比較的に軽度だった為、およそ3ヶ月で完治すると予想されていたので、本日にギプスを外す事になった訳である。

     2歳馬の傍には獣医の川澄舞が白衣の出で立ちで念入りにチェックをしており、軽く骨折部分を触ったり、叩いたりしていた。

     馬房の外には名雪が腕を組みながら成り行きを見守っている状況であり、期待している2歳馬なのだから、そうなるのは無理もない。

 

    「これなら今日中にギプスを取っても問題無い。当たり前だけど急激な調教は控えて」
    「ああ、まずは引き運動位にしておく。ある程度は外に出してストレスを発散させないとな」

 

     流石に3ヶ月近くも馬房に閉じ込めたまま、外に出られない状況が続くとストレスが爆発して、予測が付かない行動をしてしまう。

     主に尻っぱねで人や物を蹴り上げてしまい、繋ぎと球節を怪我をする可能性も。

     そのため、しっかりと長時間の引き運動でストレス解消と増加した馬体重を落とす必要が。

     本来ならプール調教で脚元の負担が少ない運動で、馬体重を減少させるのが最も良いのだが、Kanonファームにはまだプール施設は設置されていない。

     大手牧場ならばプール施設もあるのだが、中小牧場であるKanonファームでは資金のやりくりが厳しいのだから。

 

    「じゃあ、早速ギプスを外すから押さえて」

 

     既に2歳馬は頭絡から曳き手を壁の上部――馬が届かないような位置に結びつけられて固定されている。

     それでも後ろ脚は動いてしまうので、しっかりと押さえつけて壁を蹴らないようにする必要が。

     名雪は近くで厩舎作業を行っていた本馬の担当者を呼び、自身が左側にスタッフが右側を押さえるように伝えてから馬房内に入る。

     2歳馬はやや興奮した状態なのか首を上下に動かそうとし、前掻きで馬房内の寝藁を蹴っている状態。

     流石にギプスを取る為の小型チェーンソーの回転音は2歳馬には不気味にしか、聞こえないだろう。

     ギプスにチェーンソーを当てると不快音を出し、ガリガリと白い粉末を飛び散らせながら馬房を汚していく。

     名雪とスタッフは落ち着かせる為に、トモの辺りを軽く叩いたり撫でたりしているので、2歳馬も徐々に落ち着いていく。

     そして、数分後。

     ギプスは綺麗に取り外されて、舞は念入りに怪我した箇所を触りチェックを行う。

 

    「うん、これなら問題無く運動させる事が出来る」
    「そうか……他馬よりちょっと調教が遅れているし、こいつも追いつくのは大変だろうな」
    「さっきも言ったけど、急激に調教を課さないようにして」
    「……わたしはそこまで厳しく無いんだがな。まぁ、取り敢えずはギプスを取った事で感覚が変わっただろうし、今日は調教類を一切しないと約束しよう」
    「なら、安心……ん、他の牧場も回らなければならないから私は帰る」

 

     舞はそういうと、白衣に付いた寝藁とギプスの粉を軽く払い落としてから、治療道具が入った革鞄を手に取って帰って行った。

 

 

     名雪は2歳馬の骨折が完治した事で、これからの調教計画を立てる為に競馬関連の本が大量に置かれ、PCがある自室に戻る。

 

    「さて、調教は1週間後辺りを目安にして、最初の調教は誰にするべきか」

 

     最初の調教は最も大事な過程で、馬が走りたくないと思わせないようにする必要があり、気持ちよく走らせる技術が必要になる。

     デビュー済みの馬だったら走る気は強いのだが、デビュー前の2歳馬はその点を上手く扱わなければならない。

 

    「……潤で良いか。こういう所は一弥より上手い部分があるからな」

 

     馬の扱いは一弥の方が上手く、調教でもKanonファーム内ではベテランクラスなのだが、それは昔から同じ事を繰り返してやってきた積み重ね。

     既に一弥は作業として染みついているので、馬を気持ちよく走らせる腕はこの世界に入って、まだまだ年数が少ない北川の方が固定観念は無い。

     固定観念が無いので最初から走るとかを見抜く事はしないので、その点では長年競馬に関わっている一弥より馬の評価が甘くなっている。

 

    「……さて、わたしも頑張らないとな」

 

     名雪はテーブルの上に置かれている競馬新聞を一瞥し、引き続き作業を行う為に自室から出て行く。

     その競馬新聞にはNHKマイルカップの結果が掲載されており、その写真には僅か1cmの差で勝利した祐一の写真が一面を飾っていた。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特に無し。