検量室。
そこには各陣営の調教師と騎手が丹念に話し合って、スーツを着た競馬協会関係者が前検量を行っている。
レース前には最も慌ただしい場所で、優秀な騎手なほど短い時間で次に騎乗する馬の事に切り替えなくてならない。
まさに、ターフとは別の戦場ともいっても良い位の場所で、多くの競馬関係者が働いているのだから。
そんな中である場所――騎手の待機所では好奇心の目が浴びている1人の女性騎手が縮こまって隅の方に座っていた。
その女性は青と白の縦縞に黒の腕輪という勝負服――現Kanonファームの印を身に付けている。
騎乗する馬はフォックステイルという2戦未勝利の3歳牝馬で、そろそろ初勝利が期待されているのだが、気性が激しいのが難点。
明るい茶髪と勝負服が相まって目立ち、この女性には初めての中央競馬騎乗というのが重くのし掛かっているのだろう。
女性の名前は沢渡真琴。
地方競馬ではトップクラスの腕前を持つ彼女だが、初の中央参戦は見知った人が居ないという事もあって気後れしている状態。
そして、何よりも自身に向けられている視線の多さが川崎競馬場の観客数と比べるべくもないのだから。
「……あうー」
ポツリと不安そうな表情をしつつ、真琴は口癖らしい言葉を吐いてからパドックを回る騎乗馬の様子を見る。
フォックステイルは牝馬らしからぬ、入れ込みをしている状態で発汗が冬とは思えない程、酷い状況であり、一目で走らないと思われる。
その為、人気は14頭中10番人気となっており、直前調教では調教タイムが良かったのだが、この様子では調整ミスと思われても仕方ない。
更に中央初参戦となる真琴の存在と乗り代わりが影響した可能性が高い。
地方競馬まで詳しくないと、地方から参戦した真琴は新人騎手と同じような存在なのだから、ここを勝利して名を売らなければならない。
「こんな状態で乗るなんて、大丈夫じゃないわよぅ」
真琴は頭を抱えたくなる状況だが、依頼されたのだから、しっかりと結果を出さなくてはならないのだから。
枠帽を示す赤いヘルメットの顎紐がしっかりと止められているのを確認して、真琴は騎乗前の号令に従い、パドックに向かって行った。
多数の好奇心が含まれた視線を浴びつつも、しっかりと入れ込んだままのフォックステイルに騎乗する。
先程の入れ込み具合とは違い、少し落ち着いたのか、尻ッぱねをする事は無くなったが代わりに首を激しく上下に動かしている。
「大丈夫か? 嬢ちゃん」
「あぅ……一応、大丈夫だと思いますけど」
「先に言っておくが嬢ちゃんの腕はどれだけか知らん。水瀬社長の依頼じゃなきゃ乗せる事は無かっただろう」
「……つまり、結果を出せば良いという事ですね」
「単純だろう? 因みに前走と前々走の騎手は今回1番人気の馬に騎乗している倉田だからな」
真琴にはいきなり高い難題を与えられた様な物で、ここで結果――3着以内に入らなければ納得されない。
あうー、と呟いてから真琴は気合いを入れる為に、両頬を軽く叩いた。
川崎競馬とは比較にならない程の歓声と怒声、罵声などが混じり合った声を聞きながらも真琴は返し馬を行う。
軽くキャンターで走らせると、入れ込んでいたのが嘘の様に落ち着いた動きを披露する。
これが本来の動きといわんばかりに、真琴は一瞬煽られる様な格好になるが直ぐさま立て直す。
「なんなのよぅ。さっきとは全く違うじゃない」
真琴は勝算が出たと確信したのか、口元は楽しそうに笑っており、周りの騎手に隠す気は無い様だ。
元から入れ込み+低人気+地方騎手の組み合わせなど、チェックする騎手は少なく、殆どは佐祐理が騎乗する1番人気に注視されている。
だが、佐祐理だけはフォックステイルに注視している様で、ジッとゴーグル越しに様子を眺めていた。
そして、レース発送時間になり、真琴はゴーグルを装着し、フォックステイルをゲート内に誘う。
最後に8枠14番の馬がゲートに入るとスタートが切られ、芝1600mレースを各馬が駆けていく。
佐祐理が騎乗する馬は他馬よりもワンテンポ遅れたのか、最後方からのスタートとなり観客席から絶叫が響いてきた。
フォックステイルの方は入れ込んでいた割には上手くゲートから出て、7〜10番手辺りで馬群に囲まれている。
好スタートは切ったのだが、直前の入れ込みを配慮して下げたのは真琴の判断だったが、フォックステイルは行きたがる素振りを見せない。
抜け出して1頭になると口を割って、騎手と喧嘩する性格なので馬群の中で脚を溜めるのは正しい判断。
だが、他の騎手からしてみれば真琴の情報が少ない事と入れ込んだ馬が後ろに居るのは厄介な存在に過ぎない。
ここから、どの様に仕掛けるかが分からない状況なので、レースを引っかき回す可能性があるので嫌な存在には違いない。
更に後ろには佐祐理が騎乗する馬が控えているので、中団から後方にかけては動く馬が一切居ない状況。
先頭を走っている逃げ馬の騎手は、このまま行けば勝てると目論んでいるのか2番手以降を3馬身近く引き離している。
中山の1600mなので、仕掛け所を誤ると直線の坂で止まってしまう馬がいるので、如何に最後まで脚を伸ばすかが鍵。
残りの距離は800m近くとなり、各馬がそろそろ動き出せないと前を捉えるのが厳しくなるが、後方は金縛りに遭った様に動けない。
だが、後方に居た馬で真っ先に仕掛けたのは中山のセオリーを知らない真琴がフォックステイルを導き、一瞬の隙を突いて馬群が開く前に突っ込ませる。
すると、フォックステイルの前に居た2頭が何の抵抗も無く、すんなりと道を開けたかの様に綺麗な道を作ってしまう。
勿論、進路妨害もしておらず騎手も中山のキツイ最終コーナーで簡単に遠心力で飛ばされる無様な騎乗はしていない。
突っ込んだ勢いでフォックステイルは良い脚を繰り出し、何度も馬群の隙間を突く真琴の騎乗が水に合ったのか、残り200mの時点で4番手に浮上。
後は坂を駆け上がるのみだったが、いつの間に佐祐理の騎乗馬が距離ロスを承知で外からフォックステイルを追い詰めようとしている。
フォックステイルの脚色は鈍っておらず、まだしっかりと前を見据えて先頭を捉えようとしており、それに合せて真琴も手綱を力強く扱く。
あっという間に坂を駆け上がっていた他の馬を交わすが、佐祐理の騎乗馬がしぶとくフォックステイルに食らい付いてくる。
最後の最後で佐祐理はヨーロピアンスタイルの神髄である重心軸を後ろに置いて、力強く騎乗馬が駆けだす。
しかし、真琴はわざと馬場の中央から外から追撃してくる馬に馬体を併せさせて、フォックステイルの闘争心を煽る。
元から1頭になると口を割ってしまうので、この好判断によってフォックステイルは1歩抜け出して勝利。
10番人気という低人気馬が勝利した事で場内はざわめき、観客は沢渡真琴という騎手の名を覚えた事だろう。
「ふぅ……祐一君が言う通り手強い子が来たなぁ」
佐祐理はキャンターで走らせているフォックステイルの騎手――真琴の背中を見ながら、この敗戦を悔しそうに呟く。
佐祐理の馬は首差の2着とはいえ、1番人気を背負っていたのでこのレースは勝たなければならなかった。
「取り敢えず、次の500万下では私は騎乗予定無いですし、観客として楽しませてもらいますか」
敗戦の事を直ぐさまに切り替えてから、佐祐理は今回の敗北を認めて真琴よりも先に検量室前に戻っていく。
真琴は暫し、中央で勝利した事で惚けていたが我に返ってから検量室前までフォックステイルを戻すと競馬関係者か拍手で迎えられる。
中央初参戦初騎乗初勝利となったのだから、競馬カメラマンから写真を撮られたりしている状況。
「ん、まぁ、良くやったな」
「あう……ありがとうございます」
調教師に褒められたが、真琴はレース時の様な勇ましさは鳴りを潜めてしまう。
どちらも真琴の性格だろうが、こっちが本性なのかもしれないが今は関係ない。
調教師はそんな事を気にせずに、何か思い出そうとしているのか、真琴の顔を見ている。
「済まんが、嬢ちゃんの名前を覚えていないのでな。名前教えてくれないか?」
「……真琴。あたしの名前は沢渡真琴です」
「沢渡真琴か、覚えておこう。またこっちに来る事があるなら連絡してくれ」
「あ……ありがとうございます!」
即ち、真琴は早々と調教師から評価され、まだ中央では騎乗依頼を受けられる成績ではないが、地方馬の遠征時に連絡をすれば依頼される可能性が出てきた。
それだけの結果を示したので評価されない方がおかしい訳であり、良くても入着だったのが1着と大金星を挙げたのだから。
そして、真琴は次に騎乗する川崎競馬からの遠征馬で並み居る中央馬を下して、今日だけで2戦2勝の成績で観客に自身の名を知り渡らせた。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。