駆ける馬　２部　１１話

　　　　　Kanonファームの期待の２歳馬が骨折――何かの音に驚き、馬房の壁を蹴り上げた結果という自業自得なものだった。

　　　　　症状は足根骨骨折という軽傷なもので、蹴傷を行った場合に良く見られる骨折。

　　　　　骨折したのはイチゴサンデーの０６年度産駒――父は武蔵野Ｓとジャパンカップダートで圧勝し、共にレコードのおまけ付きとしたクロフネ。

　　　　　クロフネの産駒には既に２歳ＧⅠ――朝日杯フューチュリティＳを制したフサイチリシャールが輩出されている。

　　　　　それ以外のＧⅠ勝ちはないが、芝ダートを問わずに重賞馬を輩出しているので、生産者の中ではそれなりに人気がある種牡馬。

　　　　　因みに去年のリーディングサイアーは２０位だが、ノーザンダンサー系の中では父であるフレンチデピュティに次いで高い２位である。

　　　　　そして、母がＧⅠを２勝しているのだから、間違いなく良血に分類される仔馬で今年のデビューが待ち遠しい存在だったのは確か。

　　　　　それが骨折という憂い目にあってしまい春に入厩させる予定どころか、夏のデビューが大幅にずれ込んだという事になってしまった。

　　　　　とはいえ、軽度の骨折なので凡そ３ヶ月もあれば完治すると、治療した獣医――川澄舞の言い分が名雪に伝えられている。

　　　　　だが、２歳馬の３ヶ月は育成させる事が後に大きく結びつく時期なので、この怪我は他馬に比べると埋めがたい差となって現われてしまう。

　　　　「……取り敢えず、軽傷で助かったか」
　　　　「そうなる。暫くは安静が必要だけど、経過次第では予定よりも回復が早いかもしれない」

　　　　　名雪の正面にはシミ一つ無い白衣を着た女性――川澄舞が２歳馬の症状を書いてある診断書と骨折箇所を撮影したレントゲンを名雪に手渡す。

　　　　　内容は１ｃｍ程の骨片を取り除く為に、飛球付近を小さく切開し関節鏡手術で取り除いたと書かれている。

　　　　　そして、レントゲンには治療前の骨折部分が撮影されており、飛球の内側部分に小さな骨片が写っていた。

　　　　　その２つを見終えると名雪はテーブルの上に放り投げて、ソファーの背もたれに深く寄り掛かる。

　　　　「期待出来る筈だったんだがな。まぁ、今は治療に専念させるしかないか」
　　　　「流石にこの状況で運動させたら、私でも怒る」

　　　　　どちらかというと感情が乏しい舞だが、獣医として自分が手掛けた馬の経過は最後まで責任持って接するので、名雪の発言は頂けなかったようだ。

　　　　　舞はテーブルの上に散らばった診断書とレントゲン写真を整頓し、自分の鞄の中に仕舞う。

　　　　「まぁ、わたしは獣医ではないから治療に関しては舞に任せておく。一応、舞の腕は信頼しているからな」
　　　　「そう。それなら良いけど」

　　　　　舞は名雪から信頼されている事に関しては照れくさいのか、僅かながら顔を赤らめてしまった。

　　　　　舞は恥ずかしさを隠す様に名雪が淹れた珈琲を口に付けて誤魔化すが、そんな事をしてもますます恥ずかしさが募るだけだった。

　　　　「……そろそろ、私は帰る」
　　　　「そうか。今日は舞が迅速に行動してくれたから、助かったので感謝しておく」
　　　　「ん、これが私の仕事だから構わない」

　　　　　舞は自分の仕事で馬を救える事に誇り持っているのが分かる位、ハッキリと迷わずに淀みなく言い切る。

　　　　　その一言が聞きたかったのか、名雪は満足そうに頷く。

　　　　　そして、舞は資料などを詰めた鞄を手に取って帰っていった。

　　　　　これで治療に関する事は終了したが、名雪の仕事はまだ終了しておらず従業員から話を聞くなどの仕事がある。

　　　　　報告が無いと詳しい状況が分からないので、名雪にはこうした仕事も１つの事なのだから。

　　　　　そして、名雪の対面には大人っぽくなった北川と少しばかり幼い感じで、垢抜けていない少年――倉田一弥が座っていた。

　　　　　一弥は姉である佐祐理にそっくりな栗色の髪で大人しそうな表情が特徴的。

　　　　　それでも名雪と同じように生まれた時から、サラブレッドが身近に居たので騎乗技術や馬の扱いはKanonファームではトップクラスの実力。

　　　　　Kanonファームに居る理由は祐一と佐祐理が結婚した事で、交流が出来る様になったので積極的に人員の留学が行われている。

　　　　　そのため、一弥は先鋒として向こうから交換留学としてKanonファームで働いている。

　　　　「つまり、強風で揺れた水桶が馬房内で音を出したから、それに驚いたという訳だな？」
　　　　「ええ、水桶の中は大量に減っていたので、軽くなった分強風で揺れやすくなっていたのでしょう」
　　　　「飼い葉桶が廊下に転がっているとかは無かったからな。それ以外の理由はオレには無いと思うぞ」

　　　　北川も一弥の意見に同調しており、厩舎内には大きな音を出す物はそれ以外には無いのだから。

　　　　馬は基本的には音に敏感なので、突然の強風で煽られた水桶が揺れて音を出せば驚いて尻っぱねをしてもおかしくない。

　　　「……それ以外の理由はなさそうだな」

　　　　名雪はそれだけを呟くと、小さく溜息を吐いてから２人に退出を促し、２人が退出したのを確認すると、再びソファーの背もたれに深く寄り掛かった。

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　　　　　この話で出た簡潔競馬用語

　　　　　注１：クロフネ……３歳秋からダート路線で活躍したが、ＮＨＫマイルＣも制しており芝ダート兼用馬として活躍した。
　　　　　注２：フサイチリシャール……２歳重賞では活躍したが、３歳になると活躍出来なかった典型的早熟馬。