適度に光量を絞ったランプが顔を照らし、3人が座っているカウンター席にはお酒が調度品の様に置かれている。

     軽くグラスに口を付けつつ、暫くは誰もが一言も発せずにお酒の味を楽しんでいる状況。

     静かな雰囲気を醸し出しているので、それに合わせて3人も簡単に口を開かないだけかもしれない。

     そして、ある程度の量を飲み終えると、最初に口を開いたのは香里で軽くウェーブヘアを弄りながら名雪に向かい合う。

 

    「最近はどうなの? それなりには生産馬が走っているのは分かるけど、あたしとしては本人の口から聞きたいのよね」
    「そうだな……今までは種蒔き期で、そろそろ芽を出す頃だとわたしは思っているがな」
    「つまり、攻勢に出るって事ですよね?」
    「そういう事だ。手始めに送り込んだフォックステイルは2戦とも敗れたが、ホワイトクラウドは思惑通り新馬勝ちとなったからな」

 

     自家生産した馬が期待通り、結果を出した事が喜ばしいのか、名雪の口調は滑らかで普段よりもトゲが少ない。

     牧場の基礎となる放牧地の牧草入れ替えや、坂路と屋内馬場を建設し生産馬の底上げに注力していたのだから、芽が出るのは遅かったのかもしれない。

     だが、その部分が成功した事でKanonファームの生産馬は基礎体力に優れ、丈夫な馬が多いといわれている。

     そのためか、ちょくちょくと庭先取引やセリ市でも高値は付かなくても売れている実情。

 

    「2005年のガーネットS以来の重賞制覇が今年の目標とは言っておく」
    「自信があるのね?」
    「ああ、あの時は低人気での勝利だったからな。素直に喜ぶ気にはなれなかったのは確かだ」
    「でも、後にフェブラリーSを勝ったメイショウボーラーを負かしているじゃないですか」

 

     2005年のガーネットSには2歳時に芝重賞を連勝していたメイショウボーラーが芝路線からダート路線に変更し、逃げ粘って2着。

     その後は実力が再び開花したのか、根岸SとフェブラリーSを逃げ切って連勝したのだが、その後は燃え尽きたのか惨敗を繰り返していた。

     今は種牡馬入りしているメイショウボーラーだが、ガーネットSで勝利した名雪の生産馬は、調教パートナーとして活用されている。

 

    「そんな訳だから、今ひとつ喜べる気にはなれない」
    「じゃあ、1番人気で勝利するのを楽しみにしていますね」

 

     その時は私が写真撮影しますね、と栞はカメラが入っているケースを軽く叩きながら、名雪に向かってニコリと微笑む。

     当の本人は顔には出さないが目を瞑ったまま頷いており、その口元は嬉しそうに笑っていた。

 

    「それにしても、名雪が秋子さんの跡を継いでから、もう10年も経っているのよね」
    「……もうそんなに経つのか。ふん、わたしもすっかり歳を取る訳だ」

 

     名雪はグラスを口に付けながら感傷深そうな表情だが、まるで他人事の様に鼻で笑ってから呟く。

     元から馬と共に過ごしてきた名雪にとっては、単なる日常に過ぎないので10年は大した事が無いのだろう。

 

    「……まぁ、元から名雪の事は心配してなかったけどね。そういえば、北川君はまだ働いているのかしら?」
    「潤の事か。今やすっかりと馴染んで、ベテランにはまだ敵わないが一端の腕だから調教担当になっている」
    「へえ、北川君ってまだ働いているのね。って、潤?!」

 

     名雪が北川の呼び方を名字から名前に変えた事に、香里は驚いたのか声を荒げてしまうが、気を取り直して含み顔を浮かべる。

     名雪は香里の妙な視線に気付いたのか、小さく溜息を吐き出す。

 

    「ああ、わたしと潤は香里が思っている様な関係ではないぞ? 子供じゃあるまいし、名前を呼び合うだけで付き合っているとは言えないと思うが」
    「ふーん、本当はどうなのかしらね」

 

     香里は名雪を冷やかしながら名雪の表情を読み取ろうとするが、長年徹底された名雪のポーカーフェイスからは読み取るのは不可能に近い。

     香里よりも早く、社会人――Kanonファームの社長として手腕を振ってきたのだから、そう簡単に表情の読み合いで名雪に勝てる訳が無かった。

 

    「それと潤はわたしではなく、うちに出入りする白衣のお姉さんにお熱といっておく」
    「へえ、あの北川君がね。で、その相手の名前は?」
    「獣医の川澄舞だ。まぁ、その本人は潤に気があるかは知らんが」

 

     川澄舞は元々騎手を目指していたが、体重制限という高い壁が立ちふさがって、泣く泣く途中退学した経緯を持つという変わった獣医。

     本来は佐祐理とは競馬学校の同期で、腕前だけなら佐祐理に匹敵すると名雪は佐祐理本人から聞いていた事を香里と栞に伝え始めた。

 

   「……埋もれたまま消えていった天才という表現が1番合っているのかもしれないわね。その川澄さんは」
   「スポーツ界には良くある出来事ですから、仕方ないですよね。“IF”になりますけど、女性騎手トップの可能性もあった訳ですし」

 

    2人が名雪から教えられた舞の実力は裸馬――鞍や手綱無しで騎乗して、生徒だけで行った秘密の訓練とはいえ1着になったという逸話。

    模擬レースとしての結果や映像が残されていないものなので、当事者以外には誰も知らない。

    佐祐理が大げさに身振り手振りを交えて嘘を吐く性格ではないので、2人は事実として受け入れる事が出来たのだろう。

 

   「ん、ちょっと抜ける」

 

    名雪はマナーモードにしていた携帯が発信したのを確認すると、一旦席から離れて誰かと会話をし始めた。

    暫くすると、受話を終えた名雪が慌ただしく戻ってきて、唐突に帰る支度を始める。

 

   「川澄から電話があってな。2歳馬が馬房の壁を蹴った所為か詳しくはまだ分からないが、骨折したのは確かなので、残念ながら帰る必要が出てきた」

 

    電話越しで状態を聞いても伝わりにくいからな、と名雪は2人が残念そうな表情になるのを見越しつつも、しっかりと理由を告げる。

 

   「はぁ……そういう理由なら仕方ないわね」
   「うーん、久しぶりに飲んでいたのに残念です。また次があれば飲みましょうね」

 

    栞の言葉に名雪は確信を持てなかったが、約束だけを取り付けると名雪は急ぎ急ぎで空港に向かっていった。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特になし。