駆ける馬　１９２話

　　　　「１枠１番、ウインドバレー。馬体重は前走比からマイナス４ｋｇです」

　　　　　ウインドバレーの馬体重は絶好の仕上がり――１００％の能力を発揮出来る状態で、キビキビと厩務員を引っ張るようにパドックを周回中。

　　　　　ウインドバレーの後は次々と出走馬の馬名と馬体重をアナウンサーによって、読み上げられていく。

　　　　　秋子は名雪と美汐を連れて、パドックの外周沿いにある馬主が居座るスペースでウインドバレーの様子をチェックしている。

　　　　　パドック周辺では観客の熱気と熱帯夜の相互関係が組み合わさって、真夏日の様に気温が上昇中。

　　　　　秋子は流れ落ちる汗を軽く拭いつつ、自身の馬とライバル馬の動向や体調を探るが、簡単に違いは分からないのが実情。

　　　　　唯一分かるのは筋肉質の違いがハッキリと、ウインドバレーが柔らかくしなやかな筋肉で、地方馬はゴツゴツと重厚な馬体。

　　　　　この競馬場で最も分があるのは地方馬と言い切っても良い位、馬体のサイズと体重に差があった。

　　　　　１番馬体重が重い馬とウインドバレーの差は６０ｋｇ近くあり、下手すると大人と子供の比喩がシックリしてしまう状態。

　　　　「やっぱり、馬体の差が激しいね」
　　　　「でか過ぎても勝てると言う訳では無いけど、パワー勝負では分が悪いわね」

　　　　　ユニコーンＳから１ヶ月近くの調教では、体重増加と筋肉を付けるのをメインに行われていたが体質的な物だったのか増加はそれ程無かった。

　　　　　名雪の傍にいる美汐は意味が分からないのか、秋子と名雪の顔を交互に見上げつつ首を傾げている。

　　　　　どうやら美汐は天野騎手からは競馬の知識を教え込まれていないようで、競馬世界では珍しい存在に分類されるだろう。

　　　　　美汐に競馬知識を教えたいのか、名雪の表情が新しい玩具を得た子供の様に輝いているが美汐は気付いていない。

　　　　　ギュッと名雪は背中側から美汐に抱きつくと、スッポリと名雪の頭１つ分より下で美汐の身体全体が収まってしまう。

　　　　「な、何するんですかっ？！」
　　　　「んー、競馬の事を余り知らないみたいだから、お姉さんが教えてあげようかなと思って」
　　　　「け、結構です」

　　　　　残念と、名雪は一言呟くと、パッと美汐から離れてパドックの方に視線を戻す。

　　　　　既にそれぞれの馬には騎手が騎乗しており、ウインドバレーの背には丁度良いタイミングで天野騎手が鐙に足を掛けて、サッと騎乗。

　　　　　秋子と名雪、美汐はウインドバレーと天野騎手、菊池調教師の傍まで近付いていく。

　　　　「本日はお願いしますね」
　　　　「任せてください。それと作戦は？」
　　　　「作戦はただ１つ。逃げでも先行でも差し、追い込みでもなく、
　　　　　全力で走らせて例え距離が合わないと感じても、無様な走りはさせないでください」

　　　　　秋子の言葉に天野騎手は一瞬だけ、鳩が豆鉄砲を食らった様な表情になるがニヤリと楽しげな表情に切り替わる。

　　　　「……頑張ってください」
　　　　「さて、ちっと頑張ってきますか。美汐の声援を貰った事だし」

　　　　　ピッと天野騎手は親指を軽く立て、それを美汐を見せ付けてからギュッと手綱を握り、厩務員に引かれてウインドバレーが移動を再開する。

　　　　　そして、地下道に向かう為にウインドバレーから順にパドックから馬場に移行し始める。

　　　　　馬場入場時は落ち着いた様子で駆けて、ゲート前まで近付いていく。

　　　　　そして、数分後。

　　　　　ダート３歳王者を決定するジャパンダートダービーのゲートが開く。

　　　　　ウインドバレーはほんの僅かに立ち遅れて、中団辺りからレースを進めている状況になってしまった。

　　　　「僅かに乗り替わりの影響が出たのかしら？」

　　　　　秋子は双眼鏡でターフビジョンを見るよりも、馬場の方で全体図を見て呟いている。

　　　　　このレースでのウインドバレーの評価は単勝３番人気であり、１番人気のトミシノポルンガが圧倒的な人気。

　　　　　名古屋の東海ダービーを勝利しての参戦であり、実力も人気もウインドバレーよりも遥かに上と言い切っても良い。

　　　　　そのトミシノポルンガは８番手と絶好の位置取りをしており、騎手はオグリキャップが笠松に所属していた時の人物が騎乗。

　　　　　天野騎手も実力はあるのだが、相手の騎手の方が巧いと言えるほど地方の名手。

　　　　　ウインドバレーは現在９番手で、キッチリとトミシノポルンガをマークするためにビッチリと馬体を合わせて走行中。

　　　　　先行勢は余力を持って２頭から逃げ切ろうと企んでいる様で、少しだけペースを緩めている。

　　　　　１０００ｍの通過タイムは１:０２.５６とややスローペースで、中団と後方馬には厳しいと言わざるを得ない。

　　　　　だが、２頭とも未だに動かずお互いにマークし過ぎて動けないのだろうか、と誰もが探ってしまう状況。

　　　　　そして、残り距離が徐々に減少して直線間際の４コーナーに。

　　　　　ここから、２頭が馬体を合わせたまま、逃げ馬と捉える様に徐々に仕掛けられていく。

　　　　　先頭との差は６馬身程の距離が一気に５馬身差に移行し、４馬身、３馬身、２馬身、１馬身に。

　　　　　残り１５０ｍの時点で優勝争いは２頭に絞られて、観客の絶叫が更に高まりそれに合わせるように叩き合いが過熱する。

　　　　　１００ｍ。

　　　　　先頭は僅かにトミシノポルンガが首だけ抜け出す。

　　　　　５０ｍ。

　　　　　ウインドバレーが更に追い付こうと、鞭を入れられて鼻差まで追い詰める。

　　　　　そして、ゴール。

　　　　　電光掲示板には写真判定を示すマークが示されて、３着以下の馬との着差と番号だけが表示。

　　　　　数分後。

　　　　　秋子は震える自身の身体をギュッと抱きしめて祈る様に待っていたが、結果は遠い遠い鼻差の２着。

　　　　　ほんの僅かの差でＧⅠ優勝の夢が秋子の掌からスルリと零れて落ちてしまった。

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　　　　　この話で出た簡潔競馬用語

　　　　　特に無し。