東京競馬場では観客が騒然とざわめいている。
あるべき事が見られると思っていた観客からしてみれば、騒がしくなるのも無理がなかった。
この日はジャパンカップDayであり、出走馬にはシンボリルドルフの馬名があった。
一番人気は天皇賞・秋を復活勝利したミスターシービーに譲ったが、勝利するのはルドルフだと思われていた。
2番人気と3番人気は海外馬に譲り、ルドルフは4番人気である。
因みに他の日本馬の出走馬は2頭だけであり、そのうち1頭は牝馬であったので、人気は2頭の三冠馬があるのは当然。
だが、結果は10番人気のもう1頭の日本馬、カツラギエースが優勝。
しかも、道中大差を付けて走っていたのでテレビ馬だと思われていたので、この結果にはアナウンサーすら沈黙してしまう。
勿論、日本馬が勝った喜びもあるのだが、どうしても驚きの方が優先されてしまい、解説すらならない。
テレビでレースを見ていた秋子と秋名も驚愕な表情になっているが、生産者の立場からなら安堵がある。
現役最強と言っても良い、シンボリルドルフに土を付けたのは人気の無い日本馬だったのだから。
人気の無いと言っても、重賞勝ちはあるので実力が無かったと言う訳ではない。
「これで、競馬に絶対は無いと分かった」
秋名も最初は驚愕に満ちた表情だったが、すぐさま気を取り直している。
完璧な馬などおらず、シンボリルドルフもサイボークと比喩されるほど強い馬だが、負ける時は負ける。
それが分かっただけでも秋名は満足そうだった。
逆に秋子は完璧だと思っていた馬が負けるとは思えなかったらしく、がっくりと肩を落として落胆をしている。
秋子は祐馬が死亡したダービーで優勝した馬がシンボリルドルフだったので自分の馬が負かすまで無敗で居て欲しかった思いもある。
実際にはかなり不可能に近い問題だが。
「……完璧って厳しいですね」
「レース成績、種牡馬成績、馬体バランスなど全て完璧の馬なんていない」
レース成績が良くても、種牡馬として大成しない馬は歴史を遡れば大量にいる。
逆もその然りだ。
それに、と秋名は呟き、続ける。
「完璧ばかりのサラブレットなんてつまらないだろ?」
暫く、秋子は何も言わずに沈黙を保っているが口を開き、そうですね、と囁くように呟く。
今は表彰式が映されるが、騎手、調教師、生産者、馬主、厩務員は場違いだと思っているかも知れない。
が、優勝カップを渡される頃には実に堂々としており、この場所に立っている事が誇りのように。
「……うちはあそこに立てるのはいつになる事やら」
「10年ぐらいは掛かりそうですね」
早くてですが、と付け加える秋子。
運が良ければもっと早い可能性もあるが、こればかりは生まれた産駒の出来と他の馬のレベルが関係する。
自分の馬のレベルが高くて他馬のレベルが低ければ、重賞の勝利はあるかも知れないが、逆もありえる。
10年ね、と秋名は呟いてからリビングに置かれている競馬雑誌を読み始める。
この雑誌は先週のであり、レース結果はマイルチャンピオンシップが一面を飾っている。
見出しには“二ホンピロウイナー光栄なる初代マイル王へ”と少し大げさな文書で書かれているがインパクトはある。
マイルまでならウイナー、中距離ならシービー、クラシックならルドルフが現役最強と記者の思った事も書かれている。
が、今日のジャパンカップでミスターシービーの評価は下がるだろう。追い込みが決まらず、10着と大敗したのだから。
暫くはペラペラとページを捲る音だけが微かに聞こえるだけであった。
ふぅ、と一息吐いて秋名は読み終わった雑誌をソファーの上に投げ捨てる。
「……海外ね」
二ホンピロウイナーも、シンボリルドルフも海外遠征するかもと言う記事が小さな一面に書かれていたので秋名は呟く。
“かも”と推測のみで書かれているのだが、実力からしたら海外行って来る公算は高いだろう。
勝てると思いますか? と質問されたら10%ぐらいの確率で勝てそうと大半の人物と秋名は逆の答え方をするだろう。
秋子だったら半々と答えるだろうな、と呟いてから声を潜めて笑う。
笑い声はダイニングでコーヒーを飲んでいる秋子には聞こえなかったらしく、秋名をちらりと見た後コーヒーに口を付けている。
「何ですか?」
「いや、何でも無い」
秋名は立ち上がり、壁に掛かっている時計を見ると短針は4を指し、長身は3を指している。
つまり、16時15分。
秋名は何も言わずに外に向かい、秋子が何も言わないのは意思が伝わっているから。
やる事はお互いに分かっているのだから、いちいち確認を取る必要が無くテキパキと牝馬を厩舎に戻していく。
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この話で出た簡潔競馬用語
注1:テレビ馬……大逃げでテレビに映れるだけ映るのが目的であり、勝負にならない馬が良くする。