春の匂いが風に運ばれて来ており、少しずつ春の息吹で草木の芽が生えてきている。
まだ完全に雪は解けきっていないので、雪を押し上げるように僅かな新芽が葉を伸ばそうとしている。
それでも、まだ冬と言っても良いくらい気温は低く氷点下にならない分過ごし易いだろう。
そして、Kanonファームでは新たな生命が産まれる間際が刻々と近づいているので準備を万全にしなくてはならない。
産まれる頃の1週間前には厩舎に泊まり込みで様子を見なくてはならないので、秋名はこの時期だけはウンザリと言いたげな顔をする。
理由は単純に女性らしい返答――肌が荒れるし目の下に隈が出来るのが嫌だからそうだ。
秋名曰く、女性の嗜みだからが最もの理由のようだ。
秋子はその理由を聞くと、直ぐに笑ってしまいそうな表情になっているが、口を一文字に引いて堪えている。
むぅ、と秋名は眉を顰めると同時にソファーに身が沈みそうになる程、深く座り込む。
「産まれるのは何時ごろだ?」
「およそですが、どの馬も2週間前後ですね」
秋名は嘆息を深く吐いてから、安眠は今から1週間だけか、とぼやくが事態は変わる事があるので出産時期が伸びる事がある。
産まれた後も経過が順調かチェックしないといけないし、その後は種付けの為に繁殖牝馬を牧場に連れて行く。
3月から5月の中旬頃までは何処の牧場も忙しく、特に家族経営している中小牧場では猫の手も借りたい程の忙しさ。
「去年と同じように、1頭増えると負担がキツイな」
今までは2頭の繁殖牝馬のみだったが、去年はフラワーロックを購入したので余計、2人の負担が倍増していた。
深夜まで起きている事が必要な、この仕事だけはまだ名雪と祐一には任せる訳にもいかない。
「とにかく、頑張って乗り切りましょう」
「……ああ、そうだな」
秋名はぼやいた後に嘆息を吐きながら、軽く頬を叩いて繁殖牝馬の出産時期の為に気合を入れた。
秋子は名雪が毎回、気合を入れるためにポーズ――豊胸である胸の前に両手を出して気合を入れる。
サウンドワールドの次走が決定した。
そのレースは3月の4週目に行われる皐月賞のステップレース――スプリングSである。
中山芝1800mで行われる重賞であり、格式はGⅡとなっている。
弥生賞に比べると、距離は200m短いが歴代勝利馬を見てもGⅠ馬を多数輩出していた。
ただ、過去4年はGⅠ馬が出ていない状況で、スプリングS後に燃え尽きた感じの馬ばかり。
出走出来るかは、登録1週間前の体調と抽選を潜り抜ける運が必要であり、本来ならOP戦で賞金をプラスにするのが正しい。
だが、運良く皐月賞出走権利を得たとしてもOP戦→トライアル→皐月賞は疲労を蓄積してしまう。
なので、家族会議ではOP戦を出走する事を選択したのは秋名のみだった。
ステップ一本に絞り、臨機応戦で出走出来る様に徐々に仕上げているようだが、スプリングSは70%程の体調で3着までが条件。
非常に厳しい条件であり、更に出走は抽選になるのかは不明だが、やはりと言うべきか運が大きく左右してくる。
「ステップレースに出られなかったら、どうするの?」
「まだ、そこまでは決めてないわ」
馬の出走予定日が書かれたカレンダーを捲りながら、秋子は質問を答える。
ん、と名雪は頷いて、それっきり口を閉ざす。
この時期は1000万下のレースは無く、必然的に2勝した馬はOP馬になるので実力が低いとOP戦の壁にぶち当たる。
サウンドワールドは壁をぶち破るか、越えられない壁として目の前に降臨してしまうかはまだ不明。
だが、Kanonファーム全員の総意はクラシックの為に壁をぶち破って欲しいのは確実だろう。
どの生産牧場もクラシック出走と栄冠が、一番の望みで掴みたいGⅠタイトルなのだから。
「予想だと、出走してどれくらい確率で皐月賞の権利取れると思う?」
「うーん、40%くらいだ」
これは祐一。
「5分5分と見ているが」
続いては秋名。
「わたしは45%くらいです」
そして最後に名雪が自分自身の予想を述べる。
「あ、わたしが一番低いんだ。……30%と予想しているよ」
シビアに予想した名雪は、にへらと表情を和らげて場の空気を重くしてしまった。
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この話で出た簡潔競馬用語
特に無し。