Kanonファーム内にある家の中はまるで、時間が止まったように誰もが動けなかった。
この様子になったのは一本の電話が掛かって来てからであり、それ以降まるで誰も口を開けない。
その電話の内容とは、ジェットボーイが左前脚浅屈腱炎を起こしたとの事であり、引退させるか迷っていた。
浅屈腱炎とは屈腱が炎症を起こして、患部が腫れたり、熱を起こしたりする厄介な怪我である。
例え、治療したとしても再発の可能性が非常に高く、完全な完治は無くて治療方法も見つかっていない。
なので、現役させるか引退させるか簡単に選べない二者択一。
浅屈腱炎は直るのに短くても6ヶ月、長期だと1年以上掛かるのでジェットボーイの年齢を考えると引退が最良。
つまり、競走馬にはもっと厄介な怪我と言える代物。
とは言え、まだ出走数も16戦と少ない方なので、長期治療を覚悟して現役続行の手段もあった。
ようやく、最初に口を開いたのはジェットボーイの馬主――秋子。
「さて……どうするべきでしょう」
この場にいるのは秋子を含めて、秋名、名雪、祐一の4人である。
現時点で現役を選択しているのは秋名と名雪。
引退の方は残りの2人――秋子と祐一。
多数決にするとしても1人足りないので、どうしようも無くこの話し合いは平行線を辿っていた。
「まだ、出走数が少ないんだから現役で大丈夫だよっ」
「私も名雪ちゃんと一緒の考えでそう思うが」
秋名と名雪はお互いに頷いており、意見が一致しているから2人とも顔を見合わせて笑顔になっている。
秋子と祐一の組み合わせだとどちらかと言うと押しが弱いので、勝算があると踏んでいるのだろう。
「引退させて、功労馬の方が良くないですか?」
祐一は秋子の言葉に納得して、うんうんと頷いているのだが功労馬の意味が分かっているかは不明。
先ほどから、この様に同じ事を繰り返しており平行線を辿っており、まったく埒が明かない。
「これまでに稼いだ賞金を考えると、まだ足らない気もするけどな」
秋名は自分の傍に置いてあった煙草に手を伸ばし、箱から取り出そうとして空っぽだったのが分かると、舌打ちしながら箱を捻る。
「でも……これ以上走らせるとしても年齢が厳しいですよ」
例えば1年後に復帰出来たとしても、ジェットボーイの年齢は7歳――旧年齢で言えば8歳。
更に直ぐ復帰出来る訳ではなく、およそ6ヶ月も調教を行って馬体とレース勘を取り戻さなくてはならない。
レース復帰したとしても、完全に力を出せる訳ではなく惨敗の可能性が非常に高く、再発の可能性もありえる。
秋子の言い分は馬の事を考えており、秋名の言い分は牧場経営の事を考えられている。
どちらの主張は正しく、言い分は間違っていないのでどちらも譲る事が出来ないのは確か。
このまま膠着したままだと思われたが、秋名が1つ提案する。
「後で旦那に電話してみるから、それで決めるのはどうだ?」
この場にはいない人物――秋名の旦那であり、祐一の父に電話する事で人数が丁度、多数決分になる。
このままでは埒が明かないのは確かなので、秋子はその条件で飲む。
そして、数時間後。
外はドップリと日が落ちて、数分もしたら暗闇に覆われると言えるくらい暗くなっている。
「さて、電話してみるからちょっと待っていろ」
受話器を肩で挟みながら家の電話番号を手際良く、プッシュしていく秋名。
暫くすると、電話相手が出たようで何気ない会話が続いているが、久しぶりの会話なので口を挟まない。
「本題に移るが、秋子の馬を引退させるか現役続行させるかが多数決では決まらないからちょっと協力してくれ」
有無を言わせない勢いで秋名は交渉をしてしまい、旦那は戸惑っているが馬の情報を聞いてきたようだ。
「……と、言う訳で選んでくれ。引退か現役続行かを」
暫くすると、秋名は溜息を吐いて納得したように秋子に電話を渡す。
秋名が溜息を吐いた事で結果は引退と言う事が語らなくても、伝わってきて名雪も一緒に溜息を吐いている。
その間に秋子は秋名の旦那――相沢 宗一と会話を楽しんでいるのだがチラリと祐一の方を見る。
「祐一君、代わりますか?」
秋子は受話口を押さえながら祐一に質問をして、はい、と取れるように目の前に受話器を差し出す。
「もしもし……久しぶり」
この後は数十分近く、祐一は父親との会話を楽しんでいた。
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この話で出た簡潔競馬用語
注1:トウショウマリオ……トウショウボーイの甥であり、兄妹馬は重賞勝ちが3頭。