5月中盤――Kanonファームに嬉しい報告がやってきた。

     電話越しだが、その嬉しさは競馬人なら誰でも味わいたいものであった。

     秋子の旦那――祐馬に本日、日本ダービーの出走依頼が舞い込んできたのだ。

     そのため、祐馬は舞い上がって騎乗を引き受けており、すぐさま秋子に報告するために電話に走って行ったのは誰でも同意出来た。

     と言っても、人気は下から数えた方が早いが、18人しか出られないレースに選ばれた方の想いが強い。

     日本ダービーは、イギリスダービーが祖となるレースであり競馬人なら最も 目指す名誉である。

     距離も東京芝2400mで行われ、チャンピオンを決めるのには一番相応しいのであった。

     今までに勝った馬は名を残す馬も多いが、ダービー以降はレースに出られない程極限に仕上げられる。

     それほどジョッキー、馬主、牧場関係者、調教師、厩務員は3歳馬にはこのレースを目標とさせるために力を尽くす。

     世界各国のダービーも日本と同じように、名誉、地位、賞金を巡って争う事が多い。

     例え、最下位でも18番目に強い3歳馬とその馬に乗った騎手という想いがあるのだろう。

     そして、日本ダービーに限ってはこういう格言があった。

     “ダービーは一番運がある馬が勝つ”という格言が。

     ガチガチの一番人気の馬がプレッシャーによって負けたりするので、それを揶揄してこの格言が生まれた。

     運がよければ優勝を掻っ攫う事が出来るのだから。

     因みに皐月賞は一番速い馬、菊花賞は一番強い馬が勝つと云われている。

 

 

     報告を受けた秋子も満面な笑顔になり、電話越しでおめでとう、と祝福をする。

     祐馬の声は興奮しており、早口で状況を教えてくれているが、時々聞き取り難くなるが秋子は相槌をうつ。

 

    「けれど、今年のダービーは強力なのが出ていますからね」

 

     その強力な馬とはシンボリルドルフを指している。

     そうなんだよ、とちょっとだけ落胆する声が聞こえるが、直ぐに調子を取り戻す。

     やはり、騎手にとってダービーは憧れのタイトルであった。

     勿論、秋子も自家生産馬でいつか優勝したいと思っている。

     いつになるか分からないが、もしかしたら一生、出走出来ない事もあるのは秋子だって分かっている。

     日本のサラブレット平均生産数が約8000頭でダービー出られるのは、18頭で優勝馬はたったの1頭だけなのだから。

 

    「今回は他所の生産馬だけど、いつか秋子が生産した馬で表彰式に出たいね」

 

     秋子はそれを聞いた時にほんの僅かだが、頬を赤く染めていた。

     秋子が何かを言おうとした時、騎手仲間が祐馬をからかっている声が秋子にも聞こえてきた。

     このいちゃつきやがって、とかそういう類のものだったが。

     暫くこの状況は続いており、秋子はあらあらと達観しながら微笑んでいた。

 

    「じゃあ、そろそろ調教時間だから切るよ」
    「はい、頑張ってくださいね」

 

     ガチャン、と受話器が置かれる音が聞こえたので、秋子も受話器を置く。

     秋子は何かが気になったのか電話を眺めるが、首をかしげて馬の世話の為に厩舎に向かっていった。

 

 

     そして、日本ダービー当日。

     秋子はこの場にはおらず、牧場からTVによる観戦であった。

     入場者は10万人を越えており、1レース毎に絶叫が地響きの様に響き渡っていた。

     これがダービーの時には、凄まじい騒音が人と馬に叩き付けられる事だろう。

     祐馬はこの日ダービーを含めて、5レースの騎乗が依頼されていた。

     結果は10着、8着、3着、1着と調子を上げていった。

     そして、遂にダービーのファンファレーが鳴り、それに合わせて観客の手拍子が加わる。

     祐馬が騎乗している馬はスタート時にのめって、僅かに出遅れた。

     その様子を見ていた秋子は生唾をゴクリと飲み込んで、見守っていた。

     嫌、と呟いて秋子はTV画面から目を背けようとする。

     レースは既に始まっており、祐馬の馬は後方からのレースになりダービーポジションは10番手以内と言われている。

     祐馬は無理矢理、18番手から10番手に上げようと加速する。

     いつもの祐馬だったら、馬任せの騎乗だが今日は一般戦ではなく重賞、それもG�機宗銃�本ダービーの騎乗。

     なので、初めてG�汽譟璽構仭�の祐馬の平常心はとっくに吹き飛んでいるだろう。

     そして、レースは残り1200mを過ぎた。

     1200mの通過タイムは1:11.6秒と平均より遅めのペースで進んでいる。

     つまり、スローペース。

     後方の馬は切れる足が無いと交わせないだろうし、今から進出しても足が持たない。

     そして、全てのジョッキーがシンボリルドルフの動きを気にしている事もあった。

     シンボリルドルフは先頭から5番手辺りに位置を付けているが、先頭を走っている馬は逃げに出ている。

     だが、シンボリルドルフは動かない。

     仕掛ける時が自分から分かっているように動かない。

     3コーナーを回り、4コーナーへの中盤辺りから祐馬は徐々に進出をしよう と手綱を扱く。

     けれど、それは叶わなかった。

     馬の故障によって、祐馬の身が空中に身を投げられたのだから。

 

    「い、嫌ぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

 

     秋子はTVの向こう側から絶叫を上げたが、その声はけして届かなかった。

     TV画面にはまるで別世界の出来事のように、落馬など関係なくレースが映し出されていた。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     注1:イギリスダービー……1780年から行われているダービー。第一回は1600mだったが後に2400mになっている。
        もっとも世界で歴史があるダービーでもある。