家の中に残された名雪宛の1通の手紙は既に開封されて、1句1句を逃さない様に読まれ握りしめたのか、クシャクシャになってしまっていた。

     だが、破り捨てる様な行為に及ばなかったのは理性が押しとどめた様で、しわくちゃになった手紙はおぼろげな存在感を漂わせている。

     その手紙は主に名雪にKanonファームの経営を任せる事が書かれており、悪びれた様子は一切書かれていない代物。

     それは秋子が名雪の腕前に期待している事が表われているもので、名雪がKanonファームの勢力を拡大出来ると思っているのだろう。

     実際に名雪が配合を考え、誕生した馬はそこそこの結果を出しており、名雪の優秀さが伺えるのだから。

     そのため、秋子は自らKanonファームから手を引いて強制的といえる方法で名雪に跡を継がせた。

     これで秋子の目標の1つであった、名雪の生産した馬と自身がこれから生産する馬と切磋琢磨で磨き合って、いつか頂上決戦をするという壮大な目標。

     この目標が達成するのは10年以上という気が長くなる程の長期間が必要であり、2人の年齢を考えるとこれがベストだといえるだろう。

     閑話休題。

     手紙は名雪に牧場を継がせただけではなく、秋子は新たに牧場を経営する準備が整っていた事も書かれていた。

     その場所は“海外”で売り出されていた小規模で廃場寸前の牧場を購入し、既に設立済みという秋子の手際の良さが分かってしまうもの。

     だが、手紙を隅々まで見回しても国名は一切書かれておらず、手掛かりとなるような事は無い。

     それは生産を続けて強い馬を生産し続けていれば、何処かの競馬場で会えるという秋子のメッセージに違いなかった。

 

    「……ああ、だから有馬記念が終わった時、心に刻む様に中山競馬場を眺めていた訳だ」

 

     それ以外にも日高地区牧場組合に名雪を連れて行ったりしたので、既に秋子の中では決定していた事だったのだろう。

     名雪はそんな事を思い返しながら、物憂いしく吐息を吐き出してしまう。

 

    「はぁ……重いものを背負われちゃったな」

 

     名雪にとっては秋子の跡を継ぐのは非常に険しい道のりで、これからは牧場経営などで比べられる事が多くなるので気が滅入っても当然。

     それでも名雪は今更、馬を捨てた生活に戻るのは不可能だと分かっているのでこの道を進み続けるしか退避先は無いのだから。

 

 

     そして、秋子が海外に持って行ったと思われる繁殖牝馬は以下の通り。

     エリザベス女王杯を制したミストケープ。

     ウインドバレーの半妹となっているブルーフォーチュン。

     産駒にアイシクルランスが居るルリイロノホウセキ。

     と、海外に連れて行ったと思われる内約はこの通りになっていた。

     更に来年デビュー前の産駒――ミストケープ×オペラハウスの牡馬とフラワーロック×へクタープロテクターの1歳牝馬も一緒に。

     ダート適正が高い馬は1頭も居ないので欧州の可能性も高いが、日本の芝馬で米国を目指すのもありなので確定はし難い。

     名雪は取り敢えず5頭が居ない事を従業員に告げ、牧場作業をさせているがどのような反応をされるかは不安な所だろう。

 

    「みんな、わたしに付いて来てくれるかな?」

 

     名雪はそう不安げに独りごちる。

     秋子に比べると名雪は人を引っ張る風格や経験が足りない事は多いが、それでも十分な下積みは重ねているのだから。

 

 

     そして、朝の牧場作業が終わり、従業員と揃って朝食を食べるのが恒例となっているKanonファームだが、秋子と秋名が居ない事に従業員が気づく。

 

    「お嬢。社長達はどうしたのですか?」
    「理由はこの手紙を見て貰えば分かると思うよ」

 

     元地方競馬で厩務員だった従業員に秋子が書いた手紙を渡すと、ゆっくりと読み、読み終えると別の従業員に手渡す。

     そして、従業員から回ってきた手紙を最後に読んだ北川は名雪に手紙を返す。

     それから名雪は従業員の顔をジックリと見回し、自身に向けられている視線を感じながら口を開く。

 

    「さて、この様な状況になった訳だけど、このままわたしに付いて来て欲しい。強要する訳ではないから判断は任せるよ」

 

     凛とした口調で名雪は従業員にお願いをすると、元からそのつもりだったのか、従業員はリビングから誰一人退出しない。

 

    「何を言っているのですか“社長”? 私達は全員元より付いて行く腹づもりですよ」

 

     従業員の一人がその様に宣言すると他の従業員も同様に頷いており、名雪の信頼感が如何に高いかが分かる。

 

    「そっか……ありがとう。わたしも決心しないと駄目だね」

 

     名雪は従業員が付いて来てくれる事を感謝しつつ、これからは自分がKanonファームを発展させて従業員を引っ張るために決意する。

     その行動は決心を揺るがない様に戒めとして、名雪は自信の手で女性の憧れとなり得えていた長くて艶のある後ろ髪を乱雑に鋏で切り落としていく。

     腰のやや上まであった長い髪は肩までの長さまで乱雑に切られて、伯母である秋名にそっくりな姿に。

 

    「さあ……これからはこの牧場名の様に前を走る相手を追いかけていくよ」

 

     名雪はそうした目標を掲げ、その言葉に従業員はしっかりと返事をし、名雪を筆頭としたKanonファームが新たに動きだした。

 

 

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     この話で出た簡潔競馬用語

 

     特になし。