春の息吹が日高地区にも感じられるようになった4月の下旬。
まだ桜の花は満開では無いが周辺の草木は陽光で輝く葉が茂っており、完全に冬の季節が過ぎ去った事が伺える。
そして、Kanonファームで行っていた1つの会議――本年度の種付けを行う種牡馬が確定し、詳細は以下の通りである。
フラワーロック×ニホンピロウイナー。
ファントム×サンデーサイレンス。
クイーンキラ×アスワン。
どの配合も完全なアウトブリードになるので、丈夫な馬が産まれる割合は高いが、体質に問題が出るインブリードよりは長い期間賞金が稼げるだろう。
中小牧場であるKanonファームでは、インブリードで爆発力のある馬を生産するよりも、使い減りをしないアウトブリードを選択するのは明白。
使い減りしないと言う事は長期間出走可能になり、出走手当てetcを諸々稼いでくれるからだ。
余裕が出てきたらインブリードを狙う可能性も高いが、現状ではリスクを犯さない方が得策と言えるだろう。
ただ、リスクを承知で狙うのも正しい事であり、どちらが一概に正解かは誰もが分からない。
「キチンと受胎してくれると良いんだがな」
「特にサンデーサイレンスの仔を受胎して貰わないと800万が無駄になるのは痛いですからね」
他の種牡馬より格段に高く、ノーザンテーストの種付け料――2000万には遠く及ばないが高額なのは間違い無い。
因みに近年輸入された海外種牡馬で一般的に高額な種牡馬はリアルシャダイ、リヴリア、トニービン、キンググローリアスくらいである。
そこにサンデーサイレンスも加わるのだが、いくら産駒が走らなければ失敗のレッテルを貼られてしまう。
競走馬を引退しても種牡馬としての勝負が続くのだが、馬は生き残るために血を繋ぐ。
「さて、これから連れて行かないとな」
「では、姉さんお願いします」
秋名は馬運車の助手席に乗り運転手に出発をさせると、ゴトゴトと砂煙を僅かに撒き散らしながら馬運車が動き出す。
秋子は見送りが終わると、軽く肩を回しつつ厩舎に向かっていった。
厩舎の扉を開けて中に入ると、ギプスをようやく外せるようになった名雪が今までの遅れを取り戻す勢いで仕事を行っていた。
「もう大丈夫そうね」
「筋力が落ちているから、完全復帰には時間が掛かりそうだけどね」
それ以外はまったく問題無いよ、と言いたげに名雪は左腕を勢い良く回して見せる。
ジッと、秋子は名雪が回している左腕を見ているが、問題が無い事が分かると嘆息を吐く。
名雪は人差し指と中指を立ててVの字を作りつつ、2週間で完全復帰するよと宣言をして笑顔を秋子に向かって振りまく。
秋子は応援の意思を込めてクシャクシャと名雪の頭を軽く撫でると、名雪は頬を緩やかに弛緩させてしまう。
普段は強がっている事が多いとは言え、名雪はまだ12歳なのだから母である秋子に甘えたい年頃。
本来ならこの年齢では遊ぶ事を優先するのが普通だが、名雪は牧場の娘として振舞う方を選択しただけ。
そして、名雪は甘える事を選択せず秋名と共に秋子を支える方を選んだだけで、それは誰にも覆すことが出来ない。
それが家族としての最善な方法だと名雪は信じているのだから。
「んで、繁殖牝馬は秋名さんが連れて行ったんだよね?」
「そうよ、そろそろ着いた頃だと思うけど」
「一度だけでもサンデーサイレンスを生で見てみたいな」
今まで見たのは、秋子が種牡馬展示会で記録したビデオと写真くらいだけで直に見たことは無かったので名雪は願望を口にした。
一般人も見られない場所に放牧されているので、競馬関係者以外は運が良くない限り見ることは適わない。
「キチンと受胎してくれると良いね」
「そうね。800万近くも支払っているんだから、受胎してくれないと赤字よ」
先ほどの秋名とのやり取りと同じような返答を秋子はしつつ、名雪の言い分に同意する。
一般家庭の年収を超えるほどの種付け料であり、Kanonファームとしては珍しくリスクを選択したのでどうなるか分からない。
例え、受胎してもデビューするまで決して気を抜けなく、死産、骨折などが付き纏うのが当たり前である。
デビューするまでの過程も大変であり、デビュー後も予後不良になる確率があるので引退後に牧場に帰ってこられる馬の数は少ない。
牝馬ならともかく、牡馬は種牡馬になれなければ生まれの牧場に帰ってくる事が出来ないのが通例。
例外はジェットボーイとアストラルの様に功労馬として牧場に帰る馬だけ。
「まぁ、先の事を言い過ぎると鬼が笑うし、近いうちに出走する馬の方が気になるね」
クスッ、と秋子は微笑んでから道具置き場に置かれている三叉状に分かれている農具用のフォークを手に取り厩舎作業を開始した。
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この話で出た簡潔競馬用語
特になし。